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福島県白河市南湖…南湖公園内

 

南湖公園にある棚倉藩鎮英碑は、大正3年(1914)、旧棚倉藩士と白河の有志により建てられた、戊辰戦争を戦って死んだ棚倉藩士の鎮魂のための碑である。

白河は奥州街道沿いの要地であったが、慶応2年(1866)に白河藩は転封され、城は二本松藩預かりとなっていた。慶応4年(1868)閏4月、会津藩は白河へ進出、白河城を占領した。これを知った新政府軍は、宇都宮から白河へと進み、白坂口へ奇襲をかけたが会津藩はこれを撃退した。

列藩同盟軍は白河城を重視し、白河口総督として会津藩家老西郷頼母が入城し、また、仙台藩、棚倉藩、二本松藩の増援部隊も入城し、同盟軍は2,000から2,500名となった。新政府軍は宇都宮の土佐藩兵に協力を仰ぎ、東山道軍に薩摩藩の他の部隊を合流させ増員し、兵力は約700名ほどだった。

数に勝る同盟軍だったが、新政府軍の戦術と、その新式の火力により同盟軍は敗れ、棚倉藩士も多くの死傷者を出し、新政府軍が20名の死傷者に対し同盟軍は約700名の死傷者を出し、白河城は新政府軍に落ちた。同盟軍は、その後、何度か白河城の奪還を試みたが失敗に終わった。

6月、兵力を増強した新政府軍は、棚倉城攻略のため800の兵を率いて出発した。同盟軍は、これを白河城奪還の好機と考え、白河へ兵力を集結させ、棚倉藩への増援は行わなかった。棚倉城はその日のうちに落城して棚倉藩は降伏し、同盟軍の白河城への攻撃も結局失敗に終わった。