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福島県会津若松市神指町南四合字幕内北

 

文治5年(1189)の平泉征討で、佐原十郎義連は源頼朝に従った。このときの戦功により会津を賜り、この地に始めて来たり、油幕を張って仮の城郭とした。 このことからこの地を幕内と呼ぶようになったと云う。

当時、稲荷社の側には神木として槻の老木が二株あったが、この枝を伐り細柱として用いたと云う。義連は、その本拠を喜多方に定め、一族を会津一帯に配した。

その後、この地に義連の子孫の葦名直盛が康暦元年(1379)に入り、この幕内に三年居住し、至徳元年(1384)小高木城(後の黒川城)築城にあたっては、この稲荷社に祈願したところ、満願の日に夢のおさとしがあり、その朝薄雪が地面を覆い、神の使いの白狐が参詣道を一路東に進み足跡を印して、城郭の導をつけたと伝えられる。現在の御城稲荷はこの二本木稲荷の分身とも伝えられる。