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福島県会津若松市門田町黒岩舘山丙

 

小田山城は、現在の会津若松城の東、約1.5kmの位置にある小田山に築かれた山城。

比高は約140mで、現在、会津藩家老の田中玄宰の墓所がある平場を主郭とし、北西側に多くの郭が配されており、北東側の稜線には、郭のほか、物見台が置かれ、深い空堀と数条の竪堀が見られる。周辺にはクルミ平、丸山、御殿場など、小田山城に関連したと思われる遺構が確認されており、城域としては相当広いものと考えられている。

築城時期や築城主は定かではないが、源頼朝の挙兵時期から従い、多くの武功を立て、会津の地頭職に任ぜられた佐原義連の孫の葦名光盛が、承久4年(1221)頃築いたと伝えられる。しかし葦名氏の本格的な下向は、康暦元年(1379)、葦名氏七代の葦名直盛の時で、当初は幕内に居館を築き、その後、現在の会津若松城の位置に東黒川館を築き移った。

小田山城はこの間に、家臣に命じ葦名氏の「詰の城」として本格的な築城改修がなされたものと思われる。文献上に現れる黒川城の記述はこの小田山城を指しているとも云われている。

この時期、葦名氏内部では、葦名氏庶家の新宮氏や北田氏との抗争が起きており、応永9年(1402)には、新宮氏と北田氏が同盟を結び葦名惣領家を攻撃している。その後、葦名氏は向羽黒山城を築き「詰の城」とし、天正18年(1590)、会津に入封した蒲生氏郷により、黒川城が会津若松城として近世城郭として整備されると、小田山城はその役割を終え廃城となったと思われる。

その後、小田山城は長く忘れられていたが、慶応4年(1868)の戊辰戦争の際には、この小田山の中腹の郭跡には西軍により砲台陣地が築かれ、会津若松城は、この地から激しい砲撃を受けることになる。

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