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福島県川俣町寺久保

 

昔、遠く都から、小手姫がこの川俣の地に下り来て、この地方一円に、養蚕と機織の技を教え広めたと伝えられている。

小手姫は、蘇我氏により暗殺された第三十二代天皇崇峻天皇の妃である。大伴連糠手(むらじぬかて)の娘で、崇峻天皇との間には蜂子皇子と錦代(にしきて)皇女の一男一女をもうけた。

日本書紀にはこの崇峻天皇の暗殺について次のような記述がある。

小手姫が、天皇の寵愛が衰えたことを悲しんでいた時期に、崇峻天皇が、献上された猪を見て「いつの日か、この猪の首を断つように、嫌な奴らの首も断ち切りたいものだ」との独り言を耳にした。小手姫はこのことを蘇我馬子に漏らしたところ、これを聞いた馬子は、「嫌な奴」とは自分のことであろうと危機感を持ち、これが天皇暗殺事件のきっかけとなった。

崇峻天皇が暗殺され、身の危険を感じた小手姫の子の蜂子皇子は、厩戸皇子(後の聖徳太子)の計らいで出羽に逃れた。その後小手姫も、蜂子皇子を捜し求めて、父と、娘の錦代皇女とともに陸奥に落ち延びた。旅の途中に錦代皇女を亡くした小手姫は、故郷の大和の風情に似たこの地にとどまり、桑を植え養蚕の技術を人々に広めたと云う。

その後、小手姫は年老いて、蜂子皇子に会うこともかなわなくなった身を悲嘆し、川俣町の大清水に身を投げ没したと云う。

里人達はこれをおおいに悲しみ、機織御前として崇め祀り、祭礼には織り留めを奉納したと伝えられる。