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福島県南相馬市小高区泉沢字薬師前

震災前取材

  • 蛇巻山
    大蛇物語公園
 

大悲山(だいひさ)の薬師堂のある山の南向いの小山が蛇巻山と呼ばれ、大蛇伝説が伝えられている。

その昔、南北朝時代のころ、琵琶の名手で、玉都(たまいち)と言う目の不自由なお坊さんがいた。玉都は、目が治るようにと、大悲山薬師堂に百夜の願をかけ、毎晩琵琶を弾いていた。

いよいよ満願という日の夜、近くの沼の主の大蛇が、若侍に化けてあらわれ、玉都の美しい琵琶の音を聴かせてもらった礼にと、ひとつの話をした。

それは、蛇巻山を七周り半もするほどに体が大きくなり、沼が狭くなったために、明日から七日七晩大雨を降らせ、三里四方、小高郷一体を大沼にするから三日の内に立ち退けという。

そして、そのあかつきには、玉都を小高郷の領主にし、目も見えるようにしてやろうと言うのだ。しかし、他人にこの秘密を話せば命はないとも告げられた。

この話の一部始終を聞いていた薬師堂の観音様は、蛇の体を腐らせ、その魔力を失わせる「鉄の釘」をたくさんつくり、大蛇の住む沼の岩に打ち付けて、多くの里人を救うように玉都をさとした。

玉都は、念願の目が見えるようになり、小高郷の領主になれることに、一時は心を奪われたが、仏に仕える身であることを思い起こし、観音様のこの話を小高城の殿様の相馬光胤公に知らせた。しかし、その帰り道、小高川にかかる橋のところまでくると、一天にわかに暴風雨となり、電光あれて玉都は八つ裂きにされてしまった。

その後小高城の殿様は、家来達にたくさんの「鉄の釘」をつくらせ、大悲山の蛇巻山周辺の沼の岩に釘を打ちつけ大蛇を退治した。玉都の命を捨てての進言によって、小高郷と里人達は大洪水の被害から救われたと云う。

玉都が命を落とした小高城西方の小高川にかかる橋は、琵琶橋と呼ばれるようになり、玉都は薬師堂の脇に祀られている。

 

この伝説は、基本的には基本的には仏教説話からのものだろうが、中に、実在の人物である、相馬光胤が登場することが興味深い。

南北朝期には相馬氏は北朝方として、南朝方の伊達氏や標葉氏らと戦った。建武3年(1336)には、相馬重胤・胤康は、斯波家長に従い鎌倉にあり、南朝方の北畠勢と戦い、胤康は討死し、重胤は自刃した。光胤は相馬氏を継ぎ、小高城を拠点に一族を率い、南朝勢力と激しい攻防戦を展開した。

しかし光胤も、小高城攻防戦で、一族の相馬長胤・胤治・成胤らとともに討死し、甥の胤頼だけが残り、胤頼らは、残った一族らとともに小高を逃れ機会を伺った。

建武4年(1337)、奥州南朝方の重鎮の北畠顕家が、奥州の南朝方勢力とともに上洛し、翌年、和泉の石津で足利軍と戦って戦死した。その後、顕家の弟顕信が、鎮守府将軍として奥州に下向し、各地を転戦し勢力回復に努めたが、北畠顕信は三沢城で敗れ、ついで宇津峯城でも敗れ、奥州の南朝方は勢力を失墜した。相馬氏は一貫して北朝方として行動し、相馬氏の跡を継いだ胤頼が、東海道検断職に任じられ、小高に戻り確固たる地歩を築きあげた。

この伝説の中の光胤は、この時代の相馬氏一族の反映かもしれない。

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