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福島県相馬市黒木字西館

 

黒木城は南北朝期の建武年間(1334~38)に、黒木大善亮正光によって築かれたと伝えられる。北畠顕家に属し、城はこの地域の南朝方の拠点となった。相馬氏は北朝方に属し行方郡を支配し、この当時に小高城を築いた。建武3年(1337)3月、相馬光胤は 宇多郡の熊野堂城にあった中村広重と黒木城の黒木大膳亮正光を攻撃した。しかし、5月、南朝方の北畠顕家は大軍で小高城を攻撃しこれを落とした。

しかし、翌建武4年(1338)には、相馬氏らの北朝方は小高城を奪い返し、さらに中村広重の熊野堂城を攻撃し落城させた。その後、北朝方は次第に南朝方を圧迫し体勢を整え、文和2年(1353)5月には守永親王や北畠顕信が篭る宇津峯城を攻撃しついにこれを落城させた。北畠顕信は守永親王を奉じて出羽へ逃れ、北朝方の奥州支配はここに確定した。南朝方に与した宇多郡の黒木氏や中村氏は、この時没落し、相馬氏の支配下に入ったものと考えられる。

天文11年(1542)伊達稙宗と晴宗との間に起きた内紛は、近隣諸氏を巻き込み「天文の乱」といわれる大乱に発展した。相馬氏は稙宗側につき信夫郡、伊達郡を転戦した。この折に、黒木城主の黒木弾正信房と中村城主中村大膳義房兄弟は相馬氏に叛いたが敗れ、宇多郡は相馬氏によって完全に掌握され、黒木城には相馬氏の重臣青田信濃守顕治が入った。

その後、黒木氏は相馬氏から養子を迎え黒木城に居していたようだが、伊具郡を巡る争いから伊達氏と相馬氏は再び争うようになり、天正7年(1579)黒木氏は伊達氏に与して相馬氏に叛旗を翻した。しかし相馬盛胤、義胤父子に攻撃され敗れ、伊達領に逃げ、その後伊達氏に臣従した。

この黒木氏は、天正17年(1589)伊達政宗が宇多郡に侵攻したさい、相馬盛胤、相馬隆胤が伊達氏に奪われた駒ヶ峯城を奪還するために軍勢を起こした際に、黒木宗元が亘理重宗らと共にこれを破り、相馬氏を滅亡の渕まで追い込んだ。

その後、関ヶ原の戦いの後、相馬氏はかろうじて相馬六万石を安堵され、中村に居城を移し、黒木城はこの時点で廃城となった。

黒木城は、比高6m程の台地上に、複雑な堀をめぐらせた平山城である。現在は、水田と宅地により遺構の一部は破壊され全容はうかがえないが、それでも、土塁や二重の堀の遺構は残っている。堀は深く、かなりな幅を持った水堀だったように思われ、伊達氏に備え入念に整備されたものと考えられる。