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青森県鰺ヶ沢町種里町大柳

2013/06/08取材

 

種里城は、赤石川流域の集落南西部の標高50~60m程の山に位置する。本郭は東西約100m×南北約300mで、郭内には段差が見られる。本郭から数段低くなった二ノ郭には南部光信の墓所がある。現在は「光信公の館」として建造物を建て、津軽氏に関わる資料を展示している。

種里城跡はこのほか、赤石川流域に集中して大小の館跡が見られ、これらは家臣団の館と考えられ、全体として巨大な群郭式の城館を形成していた。

嘉吉3年(1443)、南部氏によって津軽から蝦夷地に追払われた安東氏は、度々津軽奪還を企て西ヶ浜地方を侵攻していた。そのため、三戸南部氏は西ヶ浜方面の押さえとして、南部光信に津軽地方の鼻和郡を与え、光信は延徳3年(1491)この地に入部して種里城を居城として大浦氏を名乗った。

種里城は山間部に位置するため、海上からの侵攻に備えて入部翌年の明応元年(1492)に浜館を築き、続いて赤石城を築いて安東氏に対抗した。

文亀2年(1502)、光信は鼻和郡大浦の西根城を改修し、大浦城と改称して養子である盛信の居城とした。大永6年(1526)に光信が種里城において死去すると、その跡は盛信が継ぎ、弟の盛純に種里の地を守らせ、盛純は種里五郎と称した。

その後、大浦為信が津軽独立を果たし、元和元年(1615)の一国一城令により種里城は廃城となったが、津軽始祖である光信の墓所がある聖地とされた。

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