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青森県青森市鶴ケ坂早稲田

2017/11/01取材

この戸建沢神社の祭神の中には藤原頼秀の名があり、また、炭焼き藤太の伝説が伝えられている。

炭焼き藤太の伝説は、東北地方各所に伝えられているが、その多くは炭焼き藤太は、平泉に源義経を連れてきたとされる金売吉次の父親というもの。しかし、この地の伝説は、その時期は平泉滅亡後の十三氏に関わるもので、他の炭焼き藤太伝説とは時代背景がかなり異なる。

十三氏は、平泉滅亡後も生き残った藤原氏の流れで、鎌倉時代になってからも十三湊の地域を支配していた。しかし藤崎城を拠点とした安東氏が勢力を増し、十三藤原氏と藤崎安東氏の間で、「萩野台の合戦」が行われた。戦いは藤崎安東氏が勝利し、藤原秀直は討ち死に、一族は蝦夷へ流罪となった。しかし、秀直の子の頼秀は、乳母に連れられて鶴ヶ坂に逃れ、「炭焼き藤太」としてくらしていた。

あるときこの地に、京の右大臣の姫の福姫が、乱世を避けて下女とふたり、ひそかに津軽にのがれて来た。姫は容姿にあまりめぐまれなかったが、浪岡の美人川で顔を洗うと、見違える程に美しくなった。藤太はこの姫の放浪するさまをあわれみ、なにかと世話をしていた。

あるとき姫は、藤太の貧しい暮らしを見かねて、袋から黄金一枚を取り出して藤太に与えた。すると藤太は笑って、そんなものなら、このあたりにいくらでもあるという。藤太は姫によりはじめて黄金の価値を知り、それを売りさばきたちまち長者になった。

藤太は福姫と夫婦になり、のちに「藤原頼秀」を名乗るようになった。その七代後が弘前藩の祖となった大浦光信だという伝説もある。

この戸建沢の地は、元は金沢と呼ばれ、砂金が採集されたと云う。また姫がこの地を立ち去るときに、大切にしていた金の鶏を穴の中に置き、岩戸を建てて行ったことから、この地は戸建沢と呼ばれるようになった。

その後、村人がよくここで金鶏が時を告げるのを聞いたといい、弘前のある石屋がこの話を聞き、金鶏を掘り出そうとその岩戸にノミを当てたが、刃が立たずに諦めたと伝えられる。