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青森県弘前市湯口一ノ安田

2017/10/31取材

この地の相馬山にメノコ館と呼ばれる館があり、神通力自在の女性の蝦夷族長が居しこの地一帯を治めていた。その族長は、目と目の間が6寸もある大きな顔、身の丈は1丈もあり、名は、目六面長 (メルクオモナガ)と呼ばれいた。

この目六面長が背き、このため大同2年(807)、坂上田村麻呂が平定に当ったが、目六面長はメノコ館に拠り、神通力によって気象を操り、その神出鬼没の戦いぶりに田村麻呂は苦戦したが、田村麻呂は神仏に戦勝を祈願し、この地の清泉の地でようやく打ち取った。田村麻呂は大石を重ねた石堂にその霊を鎮め、目六面長を石戸権現として祀ったという。

また別説には、蝦夷の多くは討たれたが、激しい風雨の中、目六面長は「棺森(がんもり)」という、標高588mの山に逃げた。田村麻呂の軍勢はさらに攻め立て、目六面長はそこで殺された。遺体を棺森に埋めたが、夜な夜な女が叫ぶ声が聞こえ、兵士らは怯え戦意を喪失した。そこで遺体を相馬村湯口に移し、石戸権現として祀ると鎮まった。

石戸神社は、古くは大重院医王山薬師堂と称していたが、明治の初めの神仏分離令により石戸神社と改称した。