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青森県八戸市櫛引字館神

2016/04/07取材

 

櫛引城は比高40~50mの馬淵川の段丘上に築かれた崖縁城である。本郭、外郭、出丸の三つの曲輪からなっていたとされる。現在畑となっている馬淵川に面した本郭は、東西約160m、南北約140mほどで、北側、南側を自然地形を利用した堀で画し、東側の丘陵続きを、人為的な幅約20mの堀で遮断している。

築城時期は定かではない。城主は櫛引氏で、南部光行の四男宗朝の子孫である。

櫛引氏は当初は根城南部氏に従っていたが、後に三戸南部氏に従った。永禄10年(1567)に、櫛引弥六郎は名久井城主東政勝の助けを借りて根城を攻撃したが、元亀2年(1571)、逆に南部政栄によって攻撃され所領の一部を失った。

天正19年(1591)、九戸政実が反乱を起こすと、城主の櫛引清長、清政兄弟は九戸氏に味方し、南部信直方の浅水城、苫米地城等を攻撃し、九戸城に入った。この戦いで清長は討死、清政は九戸政実とともに降伏したが斬首となり櫛引氏は滅亡した。

乱後、この城は南部氏に接収されたが、翌天正20年(1592)、破却された。