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青森県三戸町字梅内

震災前取材

三戸城は、三戸市街地のほぼ中央に位置し、馬淵川と熊原川の浸食によって形成された河岸段丘上にある連郭式山城である。両河川を天然の水堀とし、比高差は約90mの孤立した台地上にある。

城の中心に位置する大御門から東側は本丸をはじめとする城の主要部で、大手門から本丸手前までは一門や重臣の屋敷、北東側(裏手)には直臣達の屋敷、そして城下の周りにその他の家臣達が配置されていた。

現在は城山公園として整備され、昭和42年(1967)に模擬天守が築かれ「温故館」の名で歴史資料館となっている。平成元年(1989)には山麓に綱御門が復元された。

三戸城は後に盛岡藩主となる南部氏宗家の本拠地として、南部氏の祖南部三郎光行から数えて二十四代目にあたる南部晴政が築城した。

甲斐源氏の流れを汲む南部三郎光行は、文治5年(1189)、源頼朝による奥州藤原氏討伐の軍功により、糠部郡を中心とする5郡を与えられた。

鎌倉時代から室町時代初期にかけては、南朝方の、八戸根城を本拠とする八戸南部氏が近隣に勢力を広げていた。しかし南朝方の衰退と共に勢力は衰え、室町時代中期の康正年間(1455~1456)以後、三戸南部氏の勢力が急速に高まり、南部晴政の父南部安信の時に最盛期を迎えた。

南部晴政の代の天文8年(1539)、当時の三戸城(聖寿寺館跡)が家臣の放火により焼失し、その後この地に築いたものと伝えられる。同時代において、三戸南部氏が勢力を拡大し続け、肥大化した組織の統制をはかる本拠城が必要となったため、当城へ居を移したとする見方もある。

田子信直との家督相続を巡る確執の中、南部晴政、晴継が相次いで没すると、天正10年(1582)信直が三戸南部氏の家督を継ぎ三戸城へ入城、信直の代へと変わる。

天正18年(1590)に小田原の役へ参陣した信直は豊臣秀吉から、南部内七郡(現在の下北半島から岩手県北上市のあたり)の支配を認められた。

九戸一揆平定後、三戸城は近世城館のシンボルといえる石垣を持った城へと普請され,その際,本丸に三層三階の御三階櫓が上げられたと考えられている。

浅野氏の薦めで居城を不来方(盛岡市)へ移したことで、三戸城は古城となるが、寛永10年(1634)に盛岡城が完成された後も、三戸城は石垣の補修や御掃除奉行が設置されるなど、藩主より管理を疎かにしないように働きかけがなされている。

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