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青森県八戸市字新井田館平

2013/10/07取材

別名:新井田城

新井田川と松館川の合流点付近の、比高約40mの独立丘陵上に築かれた平山城である。

現在の新田八幡宮の境内が本郭で、隣の新井田小学校の辺りが二ノ郭にあたる外館であった。本郭は、東西約150m、南北約130mほどで、、外館が東西約150m、南北約300mほどである。この2郭は、かつては空堀で区画されていたが、現在は殆ど埋め立てられている。

建武年間(1334~38)に、八戸南部氏一族の新田政持によって築かれたと云われる。政持は、八戸南部氏五代政長の次男で、弟信助は中館(後の八戸城)を居館とし、根城、中館とともに、「三館一城」とも称された。

新田氏は八戸南部氏の一族として代々重きをなし、三戸南部氏の相続争いの際に南部信直を支持した八戸政栄は、新田氏から八戸南部氏に養子に入ったもので、また直政の病没により断絶の危機に陥った八戸氏の後継となった直義もまた新田氏からの養子だった。

寛永4年(1627)、南部利直の命で、八戸氏は遠野に国替えとなり、一族の新田氏もこれに従い遠野に移転し、新田城は廃城となった。

その後、盛岡南部藩から八戸藩が分藩し、治城を八戸城としたが、五大藩主南部信興が、新田城本郭跡に隠居所を造営し居住したと云う。