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秋田県大館市二井田…温泉寺

震災前取材

 

安藤昌益は、元禄16年(1703)この比内二井田村の農家に生まれた。利発であったため、京都に上り仏門に入ったが、その後、後世方別派の医師のもとで修行をし、八戸の櫓横丁に居住し開業医となった。

昌益は、医師、学者として八戸藩からの信頼もあつく、門人は代官、神官から医師、商人まで幅広く、宝暦10年(1760)頃には、八戸の弟子たちが昌益を招き一門の集まりを持った。その参加者は、松前から京都、大阪まで総勢14名に上った。その生活は質素で清廉なものだったようで、常に身を慎み、一切の歌舞や遊戯から身を遠ざけて生活していたと伝えられる。

宝暦6年(1756)、郷里の本家を継いでいた兄が亡くなり、このため郷里の二井田に戻り生家を復興し、その後は郷土にとどまり村人たちの治療にあたった。また幅広い知識から村役人ら上層農民を門人として村を指導し、凶作による疲弊から救い自らを守農大神と名乗ってもいた。

宝暦12年(1762)11月、この地で亡くなった。

その思想は極めて開明的で、身分や階級差別を否定して、全ての者が労働に携わるべきであるという、徹底した平等思想を唱え、その考えは、著書『自然真営道』に書かれている。その内容は、共産主義や農本主義に通じる考えとされるが、無政府主義の思想にも関連性があり間口の広さが見受けられる。

またこの書の中で、日本の権力が封建体制を維持し民衆を搾取するために儒教を利用してきたと考え、孔子と儒教を徹底的に批判した。しかしこの先進的な考えは、当時の社会に広く受け入れられることはなく、その死後は忘れられていった。

明治32年(1899)、哲学者の狩野亨吉が注目し世に紹介し、また第二次世界大戦後、E.H.ノーマンがその著書「忘れられた思想家 安藤昌益のこと」を著し、身分制度を根本から批判した唯一の思想家として世界的に注目されるようになった。