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秋田県大潟村

2015/08/28取材

 

北側の米代川と南側の雄物川から、それぞれ土砂堆積により砂州が延び、離島であった寒風山に達し、男鹿半島が形成された。そのとき、両砂州の間に残った海跡湖が八郎潟である。面積は琵琶湖に次いで日本で2番目の広さだった。

戦後、食糧増産を目的として干拓工事が行われた。工事は昭和32年(1957)に着工して、昭和42年(1967)から入植を開始した。干拓によってできあがった土地に全国から入植し、大潟村が発足した。全体事業は昭和52年(1977)に竣工した。

最終的には、米の増産を目指していたが、減反政策によって失敗した計画という見解もある。特に環境の方面では、湿地の喪失を嘆く向きもある。

この八郎潟は、十和田湖、田沢湖とともに、三つの湖を結ぶ壮大な三湖伝説の重要な舞台になっている。

十和田湖を追い出され、米代川を通り日本海に出た八郎太郎は、この地を湖を作る適地とし、八郎潟を造りこの地を棲家とした。その後八郎太郎は、田沢湖の辰子姫に惹かれ、田沢湖へ毎冬通うようになった。

辰子姫も八郎太郎の想いを受け容れたが、ある冬、辰子の元に十和田湖で戦った南祖坊があらわれた。八郎太郎は辰子姫を巡って、南祖坊と再度戦い、激しい戦いの後に今度は八郎太郎が勝ちを収めた。

それ以来八郎太郎は冬には辰子と共に田沢湖に暮らすようになり、主が半年の間いなくなる八郎潟は年を追うごとに浅くなり、主の増えた田沢湖は逆に冬も凍ることなくますます深くなったと云う。

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