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秋田県由利本荘市矢島町城内字田屋の下…龍源寺

2017/05/11取材

 

生駒氏は讃岐に17万3千石を領していたが、藩内で家臣同士が争い、生駒藩は城地を没収され、この地に1万石の堪忍料を与えられ流罪となった。菩提寺の龍源寺には生駒氏の墓所がある。

生駒氏は、大和の生駒の出身で、本姓藤原氏とされる。藤原房前の後裔良房のときに大和の生駒邑に居し、家広の代に、応仁の乱の戦禍を逃れ尾張に移り住み、生駒姓を名乗るようになったと云う。

家広の跡を親重が継ぎ、その娘が織田信秀に嫁ぎ、織田信長の生母となり、生駒家と織田家は同盟を確立していた。織田信秀が没し、織田信長が家督を継ぐと、信長は着実に尾張統一を推し進めていった。そして、 生駒家宗の娘が信長の後妻正室として嫁いだことで両家の関係はさらに強力になったが、永禄9年(1566)ごろから、信長は生駒家へも従属をせまるようになり、美濃攻めの頃には、織田氏に従属する形となった。

親正は秀吉とともに元亀元年(1570)の越前金ケ崎城で殿軍を戦った。信長没後は秀吉に従い各地に戦い、堀尾吉晴・中村一氏とともに「三中老」のひとりに数えられ、文禄4年(1595)には、讃岐丸亀で17万1,800石を領するようになった。

慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは、親正の子の一正は東軍に与し、親正は在国していたが西軍に与し、丹後の田辺城攻めに家臣を代理として派遣した。一正は会津出兵に参加し、そのまま東軍に与し関ヶ原本戦で武功を挙げ、親正は戦後高野山に入り出家した。このため生駒氏の罪は問われず、1万5千石の加増となり高松に移った。

一正は慶長13年(1608)、幕府の政策を先取りする形で、妻子を江戸屋敷に居住させたため、その忠義を徳川秀忠より賞された。

一正の跡は正俊が継ぎ、伊勢津藩主藤堂高虎の娘を正室とした。大坂の陣では遊軍として活躍したが、元和7年(1621)36歳で死去した。その家督は11歳の高俊が継いだが、幼少のため外祖父の藤堂高虎の後見を受けることになり、高虎は、藤堂家の家臣を讃岐へ派遣して藩政にあたらせた。

寛永2年(1625)高俊は元服し、寛永10年(1633)には、幕府老中首席の土井利勝の娘を正室として迎えた。また高虎は、生駒家一門の家老生駒将監・帯刀父子の力を抑えるため、生駒家では外様の家臣である、前野助左衛門と石崎若狭を家老に加えさせた。前野と石崎は、藤堂家の意向を背景に権勢を振るい、寛永10年(1633)に生駒将監が死ぬと藩政を牛耳るようになった。

藩主の高俊は、暗愚で怠惰な人物だったとされ、藩政を両人に任せきりにして、自身は専ら男色を極度に愛好し、美少年を集めては舞わせる遊びに打ち興じていた。世人はこれを「生駒おどり」と呼んだという。これを憂いた正室が、父の利勝に高俊の行跡を訴え、利勝は立腹して厳しく諌めさせたが高俊の乱行は一向に収まらなかった。このような中、増長した前野と石崎はしばしば専横な行いをするようになり、これに不満を持つ一門譜代の家臣たちと対立して家中は乱れた。

寛永14年(1637年)、一門の生駒帯刀は江戸へ出て藤堂家の藩邸へ藩の実情を訴え、藤堂高次は容易ならぬことと思い、前野と石崎を厳しく訓戒し、たが家中の不和は収まらず、かえって激しく対立するようになってしまった。藤堂高次は、土井利勝らと相談、このままでは生駒家はお取り潰しになると考え、事を収めるために双方の主だった者5人に切腹を申し付けることになった。

しかし国許の生駒帯刀などの一門や譜代の家臣たちはこれに従わず、藤堂家は生駒氏の騒動から手を引き、前野と石崎の家臣らは、鉄砲や刀槍で武装して国許を立退く大騒ぎになった。江戸でも一味の者たちが藩邸を立退いた。

結局この騒動は幕府によって裁定されることになり、帯刀派の者の多くは他藩にお預け、前野・石崎派の者の多くは切腹・死罪となった。また藩主高俊に対しても、家中不取締りであるとして城地を没収し、出羽へ流罪とし、堪忍料として矢島1万石を与えた。その後、高俊の次男俊明に2千石が分知され、嫡男高清は8千石の旗本となり、以後幕末まで続いた。

慶応4年(1868)の戊辰戦争では、生駒親敬は、秋田久保田藩や出羽本荘藩と共に新政府側に与し、奥羽鎮撫総督府から出羽庄内藩攻撃の先導役を命じられて出兵した。しかし庄内藩の反撃を受けて敗北、矢島の陣屋は奪取され秋田久保田城下に逃げた。戦乱が決着した同年11月、実高による高直しによって1万5,200石の大名となり諸侯に列せられ、明治17年(1884)、親承は男爵を授けられた。

家紋「波引車」で、朝鮮出兵に参陣した時、海を渡る時に陣幕が波をかぶり、当時使用していた陣幕紋「丸車」が半分海水に浸かった。しかしこの時戦功を挙げたことから、以後、半円形の「波引車」を家紋として使用するようになったという。