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秋田県利本荘市矢島町城内字田屋の下

2017/05/11取材

 

龍源寺は、打越氏を開基として元和9年(1623)に創建された。その後生駒氏が讃岐高松からこの地に移されると生駒氏の菩提寺となり、この地域における曹洞宗の触頭となった。

元和9年(1623)、由利十二頭の一人だった打越氏は、常陸の行方郡新宮より、矢島領主としてこの地に移封された。打越氏はもとはこの地にあったが、関ヶ原の戦いの後の慶長7年(1602)常陸の新宮に移された。元和8年(1622)、この地を領していた最上氏が改易になり、打越氏は翌元和9年、この地に復帰した。

打越光隆は矢島に入府後、菩提寺としてこの龍源寺を創建した。しかし寛永11年(1634)光隆の跡を継いだ光久死去後、後嗣が定まらず、打越氏は断絶、この地には讃岐高松から生駒氏が入った。

生駒氏は讃岐に17万3千石を領していたが、藩主の高俊は暗愚で怠惰だったとされ、専ら男色を愛好し、美少年を集めては舞わせる遊びに打ち興じていた。この間藩政は、外様の家臣が牛耳り、その専横に不満を持つ一門譜代の家臣たちと対立し家中は乱れた。これにより幕府は、藩主高俊に対しても家中不取締りであるとして城地を没収し、この地へ1万石を与え流罪とした。その後、嫡男の高清が8千石の旗本となり、以後幕末まで続いた。

慶応4年(1868)の戊辰戦争の際には、生駒親敬は奥羽越列藩同盟に加盟したが後に脱盟し新政府に与した。これにより庄内藩から攻撃を受け、親敬は陣屋を自焼して撤退し、龍源寺も戦火を受け焼失した。

現在の本堂は、明治13年()につくられたもので、茅葺屋根の重厚な造りで、庭園を含めてその規模は西国大名であった生駒家の方針を基に、再建整備されたものであり、地方寺院として稀に見る佇まいといえる。敷地内には生駒家の墓所がある。