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秋田県潟上市昭和豊川山田

2015/08/28取材

 

この草木谷は、生涯を農業指導に費やした石川理紀之助が、45歳の時、貧農の心を知り、貧乏から抜け出す途を探るために、一小作人として厳しい貧乏生活を送ったところである。

石川理紀之助は(1845)、金足村の豪農である奈良家の分家に生まれた。若いころの理紀之助は、学問好きで、また和歌に打ち込んでいた。奈良家宗家の主人は理紀之助を見込み娘の婿にと考えており、理紀之助が19歳の時に、自分の意思なく結婚させられた。しかし奈良家には厳しい分家法があり、それを嫌った理紀之助は、好きな学問を修め、歌道を究めたいと考え家出した。

理紀之助は歌人を志して家出したが、縁があって61歳の高橋正作に会った。高橋正作は雄勝郡桑ヶ崎村の肝煎で、私財を投じて天保の大飢饉から農民を救い、地元の院内銀山を日本一の銀山に復活させた人物だった。正作に会った理紀之助は「自分は、窮民を命がけで救済する正作翁のような農業指導者、そして実践の教えを和歌で示す歌人にもなる。窮民を救い、教えを書で示す生涯こそがもっとも尊い」との志を抱いたと云う。

その後、明治5年(1872)から明治16年(1883)までの12年間、秋田県庁に出仕、その間、現在まで秋田県で毎年開催されるイベント種苗交換会を創設した。

明治18年(1885)41歳の時、自村の豊川村山田の戸数は25戸で、非常に貧しく17戸は借金を抱えていた。理紀之助は村の窮乏を救うため、村人が一致団結して事業に取り組むことを目的に「山田経済会」を設立した。 理紀之助は収穫量を多くするため堆肥を2倍にしたり、生活費をきりつめたり、藁製品や蚕、果物を販売し、山田村の借金を7年で返済する計画を立て、5年で全額返済した。村人に朝仕事を励行させるために、午前3時には起床のための板木うちを始めた。吹雪の朝も、元旦の朝も、3時に板木を打って、それから1軒1軒を巡回し、村人を励ました。

明治22年(1889)45歳の時、理紀之助は、「収入が殆どない貧農の小作農の気持ちや実態に合った指導ではない」という批判を素直に受け、自ら貧農生活を実践するため、この草木谷で、貧農の生活を実践しながらの山居生活に入った。理紀之助はこの谷間に独居し、耕地の小作人となって貧農生活を始めた。

谷間の9反歩を耕し、当時の米1石6円の時代に、3年間で700円の利益を上げ、自らの主張する方法が貧農救済に役立つということを身をもって示し、当時の人々を驚かせた。この理紀之助の独創的な経済観や教えを求めて、近隣の若者たちが集まり、理紀之助はその若者たちと、次第に衰退していく農村の、振興の方策を求め語り指導に励んだ。

現在ある「五時庵」は、理紀之助の居住していた庵で、明治31年()、この地が火災にあった後、知人や門人が、理紀之助の住まいとして5時間で作ったことから名づけられた。

これらの実践的な指導は全国からも注目され、その後、その活動は九州や東北一帯に及び、理紀之助の志は各地で受け継がれていくことになった。

大正4年(1915)9月、永眠、享年71歳だった。