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秋田県秋田市寺内大小路

2015/08/28取材

 

菅江真澄は本名は白井秀雄、宝暦4年(1754)三河に生まれた。旅行家、博物学者として知られている。

和歌や漢学、本草学を学び、また画技も学んだ。15歳頃から25歳ころまでは尾張藩の薬草園に勤めていたが、その後各地をまわり紀行を執筆、出版などをしていた。

理由は不明だが、30歳ころに故郷を出奔、以来信越、東北から蝦夷地にいたる長い旅を重ねる。

(1788)蝦夷地へ渡り、松前藩の庇護のもと各地を漫遊し、数多くの記録を残した。(1797)には津軽藩の藩校稽古館によばれ、薬事係に任命される。しかしその丹念な調査は、逆に南部藩の間者という疑いをかけられ津軽領から追放された。

その後真澄は秋田久保田藩領に住み、久保田藩から出羽六郡の地誌の作成を依頼された。以降真澄は久保田城下に住み、藩主とも親交を持ち、久保田藩の地誌の作成に没頭し、その後は久保田藩領から外に出ることはなかった。

真澄は各地で、土地の民族習慣、風土、宗教から自作の詩歌まで数多くの記録を残している。またそれらの記録には、彼のスケッチ画が付されており、写実的で、学術的な記録としての価値も高い。

文政12年()7月、旅の途中で病の床に伏し没した。この墓石は、正面中央には「菅江真澄翁」と陰刻され、その周囲に真澄と親交が深かった国学者の鳥屋長秋(とやのながき)による万葉調の長歌が彫られている。