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秋田県北秋田市阿仁吉田

2016/04/05取材

 

風張城は、阿仁川の西岸、比高約40mの丘陵突端に築かれ、主な平場は4つある複郭式の山城である。前方の阿仁川を天然の外堀とし、北側は屏風状の岩場で守られ、西側の丘陵続きを、深さ4m、上幅5mほどの二重堀で断ち切り、城域を区画している。城域は規模は東西約200m、南北約150mで、主郭は東西約30m、南北に約40~50mほどである。付近には「馬場」「陣馬岱」「寺屋敷」等の地名が残っている。

築城時期は定かではないが、または天文元年(1532)年に、阿仁川上流域を支配した在地領主松橋刑部少輔盛光と伝えられている。天正16年(1588)の安東氏の内訌の「湊騒動」では、同じく阿仁衆の嘉成氏とともに檜山城に籠城し、安東実季に従っている。

しかし天正19年(1591)に、盟友の米内沢城主嘉成資清の夜襲を受けて落城した。資清は、暗夜に乗じて城の裏手に通じる間道の走り坂を一夜にして作り上げ、背後から奇襲をかけ、城主盛光は自刃し、奥方はたくさんの財宝とともに井戸に身を投げ、無念の最後を遂げたという。この事件の背景には、阿仁鉱山の支配権、「九戸の乱」の連座等、緒説がある。

その後、毎年彼岸の中日の夜には、城主が植えたという松の大木に天火が灯ったという。

明治の末頃、風張城の宝物の存在を信じた者が、神様のお告げやイタコの口寄せを信じ、たくさんの人夫に毎日酒を飲ませながら、一生懸命に井戸掘りをしたが、残念ながら宝物は出て来なかったという。天火が灯った松も今はなく、奥方が身を投げたといわれる井戸も、今は神の外は知る由もない。