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秋田県横手市高口下水戸堤

震災前取材

 

 

 

 

別名:岩淵城

大森城は、雄物川左岸の小さな丘陵上に位置する。頂部が主郭で、比高は約80m、東西130m、南北75mで周囲は土塁に囲まれていたとされる。主郭の東側には幅約15mの帯郭が、さらに東側には東西75m、南北90mの二ノ郭と東西100m、南北55mの外郭が配されている。現在は大森公園として整備されている。

文明年間(1469~87)、横手城主の小野寺泰道の四男の小野寺長門守道高が、横手城の西の押さえとして築城し岩淵城と称した。その後、天正年間(1573~92)に、小野寺義道の弟の大森五郎康道が入り大森城と称された。康道は「大森殿」と呼ばれ、天正14年(1586)の有屋峠合戦、天正16年(1588)の蜂ノ山合戦など、小野寺氏の主要な合戦にその中枢として参戦し活躍している。

天正18年(1590)、豊臣秀吉による太閤検地の際に、検地奉行として上杉景勝が大森城に入城し、雄勝、平鹿、仙北の三郡の拠点とした。しかし、この検地には反発も強く、沼館城の大築地氏らが「仙北検地騒動」を起こしたことなどから、所領の3分の1が削られ、雄勝郡は最上義光の所領となった。

その後、小野寺氏は旧領を奪還するため最上氏と対立、慶長5年(1600)の関ヶ原合戦の際には、雄勝郡を奪還するため、上杉方として最上氏らと戦った。しかし関ヶ原では徳川方の圧倒的勝利に終わり、西軍の小野寺氏は、最上氏を始め秋田氏や由利郡の諸豪族らに攻撃された。

同年10月、大森城は1万余の軍勢に囲まれ、康道は800人の軍勢でこれに対した。天然の要害に篭り頑強に抵抗する小野寺勢に連合軍は手を焼き、和議により連合軍は陣を解いた。

その後、西軍についた小野寺氏は改易、義道は石見国津和野に預かりの身となり、大森城主の康道もこれに従ったという。小野寺氏改易後は一時、最上氏家臣の伊良子将監の居城となったが、元和8年(1622)最上氏は改易され、その頃廃城になったものと思われる。

この慶長5年の篭城戦では、次のような話がこの地に伝えられている。

小野寺勢800が篭る大森城は、最上義光らの連合軍1万に囲まれながら、頑強に戦っていたが、周囲を固く囲まれ、横手の本城や他の支城とも分断され孤立してしまった。戦いのさなか、どうしても他の諸城と連絡を取る必要に迫られたとき、この密使の役を、城主康道の側室の「おかね」が自ずからかって 出た。

おかねは、百姓の女房に姿を変え、敵中を通り抜け、横手本城城主の義道のもとにたどり着き、その役目を果たした。ところが、その帰途で敵に見咎められ、拷問にかけられ斬罪にされてしまった。しかし、このおかねの働きで、横手本城から300余騎の援軍が大森城に入り、これに力を得た大森城は、寡兵よく大軍を支えることができたと云う。

また、大森城を攻めあぐねていた連合軍は、大手清水口方面から鉄砲をうちかけ、清水口から総攻撃をしかけたと思わせ、このため大森方は一人残らず清水口に出張った。連合軍はこの機をとらえ、本郭西側の険しい斜面から徒歩立ちで柵を破り、まさに本郭に攻め入らんとした。

ところが城中の女たち二三百人ほどが、かねて用意の大石、小石を落とし投げつけ、必死の防戦を行った。このとき、女たちは弓を使った「柴礫」を使ったと云い、これにより寄せては20人余の戦死者を出し、負傷者も多く、我先に柵の外へ逃げ出したと云う。この場所は今も「女礫」と呼ばれている。