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秋田県にかほ市伊勢居地

震災前取材

 

栗山館は由利高原の西麓、北西に延びた比高約50mの丘陵に切り込んで築かれた城で、主郭と主郭西側の腰郭群から構成されている。

山中に入り込んだ位置の台地上に築かれており、規模は小さく、構造も比較的単純で、蝦夷の城砦のチャシだったものと考えられる。

主郭の東側は急斜面の沢に守られ、西側の緩斜面には2~3段の腰郭が配されている。地形から見ると、北側にも郭が置かれていたとも思われる。主郭の南側には空堀が穿たれ、土塁がめぐらされている。東西2ヶ所に虎口があり、土橋が見られる。

この館は、由利郡を支配していた鳥海氏の館である。鳥海氏の出自など定かではないが、前九年の役で没落した安倍氏の流れとも考えられる。後三年の役の後、由利郡には大井氏が入り由利氏を名乗った。以降の由利郡は、鳥海氏、由利氏が並立していたと考えられる。

由利氏は北条泰時の時の和田の乱に巻き込まれ一旦没落したが、その後、由利政春のときこの地に復帰し、西目に浜館を築き由利全郡の旗頭と称した。鳥海弥三郎宗盛はこの由利氏と対立し、宗盛は浜館を急襲し、さらに由利氏が鳴沢館を新たに築き移ると、正中元年(1324)再び攻めて、由利政春を自害に追い込んだ。

栗山館は、このような時期に築かれたとされ、鳥海宗盛はこの栗山館を拠点として由利郡全体を支配した。宗盛没後は、常満律師が家督を継いだが、観応元年(正平5年、1350)、重臣の進藤長門守・渡辺隼人により滅ぼされ、渡辺氏がこの栗山館を居館としたが、康安元年(1361)から貞治2年(1363)にわたる抗争のなかで、両氏ともに滅亡し、このとき廃城になったと云う。

以後、由利地方は治安が乱れ混乱の時代を経て、由利十二頭による支配秩序の時代に入っていく。

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