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秋田県にかほ市院内字古舘

震災前取材

 

山根館は、東西に流れる寒沢川左岸に張出した比高約170mの丘陵頂部に築かれた、由利十二頭の一人仁賀保氏の居館となった山城である。

北側には寒沢川が、南側にも沢が深く切れ込み急峻な断崖で守られている。頂部を主郭とし、西側を大手道とし、緩やかな尾根筋を削平し、階段状に郭を配している。東側は丘陵基部を堀切で分断し城域を区画している。

主郭は東西約100m、南北約50mで、調査の結果、建物礎石が200個以上確認され、主殿を含む建物が4棟あったと考えられている。主郭の東側には高さ2~3mの土塁が築かれ、北東端には築塀があったと思われる石塁列でL字型に組まれている。東側には庭園があったと思われ、大石が散在している。

主郭の北から西側に帯郭が配され、高さ7~8mの切岸で主郭と区画されている。また中腹部には堀切が見られ、大手道の北側は空堀で区画されており、家臣の屋敷が置かれたと考えられる。

築城時期や築城主の詳細は定かではないが、後三年の役に際して源義家に従った由利太郎維安は、その軍功により応徳2年(1085)、由利半郡を与えられ、この院内の地に山根館を築いたと伝えられる。

由利氏はその後平泉藤原氏に臣従して由利支配を保っていた。源頼朝の奥州征伐の際には、由利維平は出羽口を守り敗れて捕えられた。その後許され、由利の旧領に戻り、郡地頭として鎌倉御家人となった。

維平は「大河兼任の乱」では鎌倉方として戦い討ち死にし、そのあとを継いだ維久の時に、「和田の乱」に巻き込まれ所領を召し上げられ没落した。

その後、応仁2年(1468)、仁賀保氏の祖である大井伯稽守友挙が由利郡に下向し、山根館を修復して居館とした。これ以後、由利郡の在地領主は、由利十二頭として協力関係を築き由利郡を支配したが、近隣の大勢力の動向によって、 離合集散を繰り返した。

仁賀保氏は、庄内尾浦城主武藤氏の影響を受けることが多く、また一族の矢島氏は横手城主小野寺氏との関係が強く、仁賀保氏と矢島氏は対立するようになる。

永禄3年(1560)以降、仁賀保氏と矢島氏は度々戦い、天正4年(1576)、仁賀保挙久は矢島領に侵攻したが矢島氏に敗れ挙久は討死した。また翌年には挙久の子の挙長が再度矢島領に侵攻したが、矢島氏に大敗を喫し挙長も討死し、仁賀保氏の嫡流は途絶えた。

その後、周囲の情勢が大きく変化し、庄内武藤氏の由利郡侵攻、横手小野寺氏の由利郡侵攻、庄内武藤氏家中の叛乱、山形最上氏の進出など由利郡は大きく揺れ動いた。その間、仁賀保氏は一族から、あるいは他氏から養子を迎え命脈を保ちながら、矢島氏とは緊張関係にあった。

天正18年(1590)、豊臣秀吉の「小田原攻め」に仁賀保挙誠は参陣し所領を安堵された。その後、矢島氏内部に家臣による反乱が起き、矢島満安はそれを鎮圧したが、挙誠はこの機を逃さず、由利十二頭連合軍と矢島領に侵攻、満安を西馬音内城に追い落とし自害に追い込んだ。

慶長5年(1600)の関が原の戦いの際には、挙誠は最上氏に属し庄内で上杉軍と対峙し、戦後常陸国武田5千石に移封され、このとき山根館は廃城になったと考えられる。

その後仁賀保氏は、元和9年(1623)に再び仁賀保に1万石を与えられたが、挙誠の跡を継いだ良俊のとき嗣子がなく断絶し、弟の系統が徳川旗本として存続した。