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秋田県由利本荘市川西字野際

震災前取材

 

由利十二頭の内の一といわれる由利(滝沢)氏は、大中臣良平が、源義家に従い軍功を挙げ、由利半郡を賜ったのが始まりとされる。始めは油理氏を名乗っていたとされる。

由利維平の時代は、奥州藤原氏に臣従し由利支配を保っていた。文治5年(1185)の源頼朝の奥州征伐の際には、維平は藤原方として出羽口を田河氏、秋田氏らと警固していたが敗れて捕えられた。後に許され、由利の旧領に帰り、郡地頭として鎌倉御家人となった。維平は、このことに相応の恩義を感じたようで、同年12月に出羽で起きた反鎌倉の乱の大河兼任の乱には同調することなく、大河軍と戦い討ち死にした。

維平の子の維久のとき、和田の乱に際し、北条方として鎌倉の若宮大路で戦った。しかし、維平の放った矢を敵方がとって射返し、その矢が北条泰時の鎧に立ってしまった。これにより、維久が和田方に与したと讒言する者がおり、所領を召し上げられた。

その後の由利地方は、小笠原氏が地頭として開拓に従事したが、由利氏もこの地方の支配に関わっていたようだ。しかし、小笠原氏は霜月騒動により所領を失い、この頃、維久の孫の政春のときに維久の冤罪が晴れ復帰し、西目浜館に居し由利全郡の旗頭となったとされる。

しかし、小笠原氏の流れを汲む仁賀保栗山館の鳥海氏と対立し、応長元年(1311)、家臣同士の争論から鳥海弥三郎に急襲されて落城し、鳴沢館を新たに築き、さらにこの地の根城に移った。正中元年(1324) に、再び鳥海勢に攻められた。鳥海弥三郎は、この城が水に乏しいことを知り、風上の西側に回りこみ火をかけ攻めかけ、根城は炎に包まれついに落城した。このとき病床にあった政春は、重臣に二子と守り刀を預け落ち延びさせ自害したと云う。

その後、由利氏の流れは滝沢氏に継がれていくが、鎌倉幕府は滅亡、南北朝の騒乱と続く中、由利地方の支配者は目まぐるしく変り、その混乱の中、滝沢氏を始めとした由利十二頭が残っていくことになる。