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秋田県仙北市角館町東勝楽丁

震災前取材

 

秋田県仙北市の角館は、現在も藩政時代の地割がよく残り、武家屋敷等の建造物も数多く残されており、国重要伝統的建造物群保存地区に指定されている。年間約200万人が訪れ、東北でも有数の観光地として知られている。

角館は戦国時代には戸沢氏の本拠地だった。しかし、関ヶ原の合戦後の慶長7年(1602)、戸沢氏は常陸へ転封、佐竹氏が秋田へ入部し、角館は秋田佐竹領となった。翌年には、佐竹義宣の実弟にあたる葦名義勝が角館に入った。

葦名義勝は、小松山(古城山)の角館城を居館とし、城下町は当初その北側山麓にあったが、狭隘な上に、水害や火災にしばしば見舞われ、元和6年(1620)、現在の小松山南麓へ町を移転した。新しい城下町では、道路を広げ、下水を整備し、防火対策を施し、武家地、町人地、寺社を配置した。防火対策として、南北に細長い町を東西に貫く形で中央に土塁を築き「火除け地」とし、その北側を武士の居住区である内町、南側を町人の居住地である外町とした。

葦名氏は三代続いたが、承応2年(1653)、葦名千鶴丸の死により断絶、代わって明暦2年(1656)に佐竹氏一族の佐竹北家の佐竹義隣が角館に入り、以降明治まで続いた。

佐竹義隣の実父は、京の公家の高倉家出身であり、義隣は高倉家からの養子だった。また、二代佐竹義明も公家の三条西家一門の娘を正室に迎えた。高倉家は衣文道の家元であり、西郊家の本家にあたる三条西家は歌道と香道の家元だった。このような事から、角館には多くの京文化が移入された。

戊辰戦争では、秋田久保田藩は新政府側に立ったことから、奥羽越列藩同盟に参加した周辺諸藩の侵攻を受けることとなった。明治元年(1868)8月には、列藩同盟側が角館の目前まで迫った。角館側は西国諸藩の応援を得て町の南を流れる玉川を盾に防戦し、二日間にわたる攻撃を凌いだ。しかしその後も戦局は好転せず、周辺の久保田藩側の拠点も次々と落とされ、角館は孤立し、武器弾薬や生活物資も枯渇し、一時は角館の放棄も取りざたされた。しかし9月になると、米沢藩や仙台藩は降伏し、17日ころから列藩同盟側は久保田藩領からの撤退を開始し、角館はかろうじて戦禍をまぬがれた。

藩政時代、角館は仙北郡の政治経済の中心地であったが、明治の廃藩置県以降はその地位を失っていった。新郡区町村編制法下で、郡役所は大曲に置かれ中心地は大曲へ移り、新しい時代の流れからは取り残されていった。しかし、昭和51年(1976)、明治の近代化の影響を受けず残されてきた武家屋敷地区一帯が「重要伝統的建造物群保存地区」に選定された。それをきっかけに多くの観光客がこの地を訪れるようになり、現在、年間200万人の観光客がこの地を訪れている。

また角館は桜の名所として知られ、武家地のシダレザクラが「角館のシダレザクラ」として国の天然記念物に指定され、また檜木内川左岸堤防の桜並木は国の名勝に指定されている。これらのシダレザクラは、角館北家二代目佐竹義明の妻が、嫁入り道具の一つとして持ってきたのが始まりとされ、樹齢300年以上の老樹など約400本が古い町並みの中に立ち並んでいる。