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坂上田村麻呂伝説は、東北地方各所にあるが、その生誕に関わる伝説は、宮城県の多賀城周辺に悪玉姫伝説として残り、また福島県三春鶴子丸伝説として伝えられている。中でもこの三春の伝説では、それがその後のこの地で戦国大名までなる、田村氏の出自とされ史実につながっていく・

ここでの伝説は、この地に散在する多くの伝説を、まとめたものである。

坂上田村麻呂の父・苅田麻呂は、大熊にまたがり、川を渡り、この地の直轄地の屯田(みやけだ)に着いた。その川はその後大熊川と呼ばれ後に「阿武隈川」と表記されるようになった。(郡山市田村町御代田)。この地の国見山で、東夷の大武丸が反乱を起こし、苅田麻呂が東夷征伐の勅命を受けて征伐に来たものだった。(郡山市中田町上石)

ある晩、たまたま陣中に怪しい光が差し込むのに気がついた苅田麻呂は、その光を頼って行くと、清水で根芹を摘んでいる女がいるのを見つけた。その女は郡山の虎丸長者に仕えていた下女で、阿口陀媛(あくだひめ)という醜い女だった。しかし苅田麻呂には、比類なき天女のような美女に見えた。苅田麻呂はその女の奥深い美しさを見初め、陣中にその女を伴った。(郡山市田村町徳定)

やがて、二人の間には玉のような男の子が生まれた。しかし東夷の征伐を果たした苅田麻呂は、都に帰らなければならず、苅田麻呂は「子供が成長したら都に尋ねてくるようにと」言い残し、都に帰って行った。(田村地域)

阿口陀媛の母は、娘をそのまま嫁にやったところ、夫はこの赤子を田の畦に捨ててしまった。するとそこへ鶴が飛んで来て赤子を拾い、山の頂上の自分の巣に連れて帰って育てた。ところがその赤子を拾った鶴は、石になってしまった。それを知った村の人々は驚き、阿口陀媛に赤子を戻して育てさせた。その子は鶴に拾われたことから、鶴子丸と名付けられた。それもあって、その山には鶴石山という名が付き、鶴石神社には鶴石という名の石も残されている。(郡山市中田町下枝字平松)

鶴子丸は長じて母に父のことを尋ね、印の品を携えて京都に上る決心をした。鶴子丸は都に上り、苅田麻呂の邸前に着いた時、外れ矢が飛んできた。それに対して鶴子丸は、持っていた自分の矢を投げ返すと、矢は矢音高く飛び上がり、邸内にいた苅田麻呂の前に突き刺さった。苅田麻呂は怪しんで表を尋ねさせ、そこにいた鶴子丸が自分の子供であることを知った。それからは、生地の田村郡にちなんで田村麻呂と名付けられ、父のもとで育てられた。(田村地域)

その間、田村の郷で鶴子丸を待っていた母の阿口陀媛は亡くなり、田村麻呂は悲しみの内に谷地神社に祀った。谷地神社には、田村麻呂が手玉にして遊んだという手玉石がある。(郡山市田村町徳定)

桓武天皇の時代、地獄田という所で一人の男子が生また。その子は7歳のころになると、5尺もある立派な身体の持ち主となり墓を暴いて死人を食ったり暴力を振るうようになったので、親も恐れてその子を殺そうと考えるようになった。この地は後に鬼が生まれたということから、鬼生田という地名になったという。(郡山市西田町鬼生田)

親から殺されそうになったその子は家出をし、何年か後に、大滝根に住みつき滝根丸と名乗り、手下を大勢率いては旅人や村を襲っていた。村人たちは滝根丸のことを「あいつは鬼のように恐ろしい」と噂しまた滝根丸も自分のことを「俺は鬼だ」と言って益々悪いことをするようになった。

時の朝廷は、この賊を征伐するため、坂上田村麻呂を大将とした軍を田村の地に送った。田村麻呂の軍は各地で戦勝祈願しつつ進軍し、ついに滝根丸の軍と激突した。最初は苦戦していた田村麻呂だったが、神託や白鳥の導きにより、ついに滝根丸を達谷窟まで追い詰め、滝根丸を自決させた。首領を失った滝根丸の軍は降伏し、この地の戦いは終結した。田村麻呂は滝根丸の武勇を惜しみ、その首を阿武隈一円が見渡せる滝根山の仙台平に丁重に葬ったという。

坂上田村麻呂はその後、奥州探題職を受け、子孫が田村の地に下向し三春に城を築き、田村氏の祖となった。