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朝鮮戦争からの復興が一段落した後、1960年代に入ると、北朝鮮は韓国に対する諜報活動を活発化させ、時には、直接的な破壊工作も行った。その工作活動は、少なくとも1980年代まで続けられていた。

日本国内では、1970年代から1980年代にかけ、不自然な形で行方不明となる者が出ていた。警察の捜査から、亡命北朝鮮工作員や、在日朝鮮人の証言などから、北朝鮮工作員による、日本人拉致の疑いが濃厚であることが明らかになった。

この時期、韓国内で活動してきた北朝鮮の工作員らが、韓国当局の手によって数多く摘発され、韓国の警戒が非常に厳しくなり、在日韓国・朝鮮人らを抱き込んで、韓国に入国させる形での対韓国工作活動の遂行が困難になっていた。そのため、北朝鮮は、日本人に成りすました工作員を韓国に入国させる手口をとるようになり、日本人のパスポートを奪取し、同時に、工作員を日本人にしたてるための教育係としての利用、あるいは日本国内での工作活動の利便性を向上させる目的で、日本人が拉致されていったと考えられている。

また他にも、拉致された、もしくは拉致された疑いが濃厚な者の失踪前の職業が「印刷工、」「医師、」「看護師、」「機械技術者、」といった、北朝鮮が国際的に立ち遅れている分野を担う職業に偏っており、国策的技術者の確保の目的もあったようだ。さらに、これらの特殊技能を持った拉致被害者に、日本人の配偶者を与え、家族を人質とすることにより、脱北させないようにするために、日本人を拉致した例も、多数あるのではないかとも指摘されている。

拉致の実行には様々な方法が用いられているが、その手口をいくつか挙げると、
・福井県や新潟県など日本海沿岸、鹿児島県など東シナ海沿岸に工作員を密かに上陸させ、付近を偶然通りかかった若者を、暴力も辞さない方法を用いて拉致する。
・日本国内に潜入した工作員や、在日朝鮮人の協力者が、目ぼしいターゲットを決めて接近し、言葉巧みに誘い出し、誘拐する。
・日本国外に在留、居留する日本人に「仕事の紹介をする、」として、北朝鮮に誘拐する。
・日本沿岸での工作活動中を目撃されたことで、その目撃者を強引に拉致する。

これらの拉致事件の中には、工作員の侵入地点と拉致現場が離れているケースもあり、輸送手段としての自動車の調達、潜伏先や監禁場所の手配などの共犯行為には、現地に土地勘のある在日朝鮮人の協力者が関わっていると考えられる。

これらの拉致の指令は、平壌放送内の乱数放送でされていたと思われ、また、平壌放送以外でも北朝鮮の国営放送、朝鮮中央放送内で、選曲の順番などで工作員に指令を送ったりもしていたと考えられている。また重要な工作指令は、万景峰号船内にて直接、口頭にて指令が伝達されたようだ。

一部の拉致被害者は、外国人賓客の宿泊するホテルとしても使われる「招待所、」において、特殊工作機関の常時監視のもと、その技能を活かした任務や日本語文献の翻訳などに従事させられており、一般の北の国民とは違い、別世界のエリートとして扱われていたとされる。餓死する子供が多発していた北朝鮮の中では優遇された生活だが、もちろん言論の自由や移動の自由などはなかった。

拉致事件は1970年代には実行されており、北朝鮮工作員の日本国内への侵入は、日本の海上警備を担当する当局の警備能力の低さから、北朝鮮では非常に簡単な任務であったと云う。海上保安庁は、当時、武装工作船への対処能力は持ってはおらず、また拉致は表面化していなかったため、北朝鮮による隠密領海侵犯や在日朝鮮人協力者の暗躍などはまったくの想定外だった。

海上自衛隊は、拉致といった刑事事件的な事案に関与する機関ではなく、当時はソビエト連邦の潜水艦への対処しか想定していない組織であったため、不審船の領海侵犯には無為無策だった。しかしながら、他国に不法侵入して、他国民を拉致する行為は、国家の主権を侵害する行為であり、国際法上直接侵略行為である。当時は国、政府、自治体も、さらには国民自身もそのような意識が希薄であり、拉致被害者奪還に対する対応ができてわおらず、主権を守れなかった。

この時期、1970年によど号ハイジャック事件、1972年あさま山荘事件などがあり、また成田空港反対運動での成田空港管制塔占拠事件の発生などで、警察は過激派左翼対策に注力せざるを得なかった。それでも、拉致の協力者への取り調べや暗号文の解読により、拉致事件は、北朝鮮によることを、把握しつつあった。

1980年1月、産経新聞がマスメディアとして初めて、「アベック3組ナゾの蒸発、外国情報機関が関与?」として拉致事件の報道をした。これを受けて、同年3月に、北朝鮮による日本人拉致問題に連なる議題が初めて国会で取り上げられた。しかし当時は、冷戦下にあり、社会党や共産党などの左翼は、これらの表面化してきた拉致事件は、アメリカのCIAや韓国のKCIAなどによる陰謀であるとし、精査しようともしなかった。

1987年に発生した大韓航空機爆破事件の際に、工作員金賢姫の証言から、「イ、ウネ、」こと、田口八重子の名前が、日本語の教育を行った日本人として挙がった。これについて、1988年1月、衆議院本会議において、民社党の塚本委員長が竹下首相に代表質問を行い、その中で大韓航空機爆破事件、「イ、ウネ、」および金賢姫等に言及するとともに、福井県や新潟県、鹿児島県において発生した若年男女の行方不明事件、富山県高岡市で発生した若年男女の拉致未遂事件について、北朝鮮による犯行ではないかと指摘し真相究明を求めた。

しかし、当時の世相は、冷戦下の陰謀論が占めており、また大韓航空機爆破事件とともに、アメリカや韓国の情報機関が陰で関与しているとの説が流布しており、日本の主権が侵害されているという真剣な受け止め方はされてはおらず、北朝鮮との国交正常化での、懸案事項程度の認識だった。

1988年3月、日本共産党は、福井県、新潟県、鹿児島県で発生した若年男女の行方不明事件、富山県高岡市で発生した若年男女の拉致未遂事件、「イ、ウネ、」および金賢姫等について質問を行い、これに対し政府は北朝鮮による拉致の疑いが濃厚であるとの見方を示し、真相究明のために全力を尽くす考えであることを表明し、北朝鮮による日本人拉致事件の存在を政府が認めた初めての公式答弁となった。

一方、1988年8月、ヨーロッパにおいて北朝鮮工作員となっていた、よど号ハイジャック事件犯人関係者に拉致された石岡亨、松木薫、有本恵子の消息を伝える、石岡本人の手紙が、ポーランド経由で石岡の家族の元に届き、行方が分からなくなっていた3名が北朝鮮にいることが判明した。

当時、日本社会党党首は土井たか子で、マドンナブームを起こしており、また左翼の受け皿として、朝鮮労働党の友党を自認しており、北朝鮮とパイプがあることをアピールしていた。拉致が現実に起きている重大な証拠でもあるこの手紙を、石岡家と有本家は相談し、有本さんの両親が藁をもすがる思いで土井たか子に持ち込み相談した。しかし土井は、その手紙の存在を、拉致工作員の巣窟ともいえる朝鮮総連に通報した。その後の2002年9月に、有本恵子さんは、この手紙が到着した2か月後に死亡している旨が北朝鮮から発表されており、被害者の会は、社会党の通報により処刑されたと考えている。社民党が「捨民党」と称されるゆえんである。

一方、有本の両親は、上京して自由民主党に助けを求め、自由民主党幹事長の安倍晋太郎を訪ね、当時秘書だった次男の安倍晋三に夫妻を外務省と警察庁に案内するよう命じ、夫妻はここに至って事の次第を外務省・警察庁に伝えることができた。以後、晋太郎亡き後も、拉致問題は安倍晋三に引き継がれていく。