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香港が独立し、台湾が大陸復帰し南京に遷都したことは、内モンゴル自治区やチベット自治区、ウイグル自治区の人々に大きな衝撃を持って受け止められた。この時期にはすでに各自治区の独立派勢力は、中国からの独立を宣言していた。チベットでは、中国はそれまで、270万人ほどのチベット民族に対して、成都軍区内に40万人ほどの武装警察がおかれ、その他、山岳旅団が置かれるなど、国際社会から「民族浄化」とも非難されていた弾圧体制をしいていた。しかし中共政権の崩壊は、チベットや内モンゴル、ウィグルでの勢力を大きく変化させつつあった。

チベットを管轄していたのは、成都軍区だったが、アメリカが支援する台湾が南京軍区と広州軍区を押さえ、南京に新たな中華民国政府を樹立すると、広州軍区との長大な境界を保持するための兵力が必要になり、成都軍はチベット方面の兵力を広州軍区との境界に向け、チベットには力の空白が生まれつつあった。

20XX年5月、チベット独立派は、ラサの西およそ200kmの地点のシガツェにチベット臨時政府を立てて独立を宣言した。しかしチベットでは、中国の武装警察が、これまで以上に独立派勢力を取り締まり、激しい弾圧を加えていた。これに対して、かつて、完全に崩壊したチベット義勇兵が再び生まれつつあり、各地で兵を募りながらゲリラ活動を行い勢力を拡大していた。特にこのゲリラ兵の攻撃目標は、陸路成都からチベットに入る唯一ともいえるルートの青蔵鉄道だった。この鉄道は、チベットに入ってからは随所でレールが外され、あるいは爆破されていた。

アメリカは、陸上部隊を送るつもりはなかったが、チベットを支援するため、臨時政府からの依頼と称して、軍事訓練要員100名程度が、オスプレイでシガツェに入った。この部隊の移動は極秘裏に行われ、戦闘機の護衛もついた厳重なものだった。シガツェに降り立った一団にはダライラマ14世の姿があった。これにより、チベット中が歓喜し、シガツェには次々に義勇兵が参集した。アメリカはこれらの義勇兵に武器を供与し、最低限の訓練を施したが、次々に集まる義勇兵に対応できるものではなかった。

その年の9月、義勇兵たちは首都のラサ奪還に向かった。その数は数万にも上ったが、その武装は小火器が主で、中には旧式の猟銃や、弓や槍だけの者もいたが、士気はきわめて高かった。これに対してラサを守るのは中国の武装警察1個師団6000名ほどで、僅かな装甲車があるだけで、チベットゲリラの活躍で補給路は寸断され、武器弾薬の補給は十分ではなかった。アメリカはチベット臨時政府に対して空爆の支援を申し出たが、チベット側はこれを断っていた。ラサはチベットにとって聖なる地であり、また中国軍が立てこもっているだろう建物群もまた歴史的な聖なる場所であるためだった。そのためアメリカは成都からラサへの鉄道、および陸路の橋脚の空爆を行った。

このアメリカ軍の空爆により、彼らは武器弾薬の補給も援軍もあてに出来ない中で、270万のチベット人の憎悪の真ん中に取り残されていた。これまで、中国兵がチベット人に行ってきた仕打ちはあまりにもひどいものだった。僧院を徹底的に破壊し、虐殺を繰り返し、ある地域では45%もの死者が出るような飢餓に追い込み、ある時期には若い女性は次々と強姦され、男は男根を切り取られ、それはジェノサイドというべきものだった。中国武装警察は恐慌状態に陥った。

チベットゲリラ兵たちは、統率も取れていなければ、武器も貧弱なものだった。しかしラサをひしひしと取り囲み、包囲の輪を縮めていた。中国軍が時折遭遇すると、どこからともなく現れる多数のゲリラ兵に囲まれ、弓で射られ槍で突き殺された。中国兵には脱走するものが次々に出て、残った2千人ほどが、僧たちを人質にしてボタラ宮に立て篭もったが、結局は降伏するしかなかった。

チベットはラサへダライラマ14世を迎え、ラサを首都としたチベット国を樹立した。アメリカはラサクンガ空港に空軍部隊を駐留させ、チベット軍の編成に寄与していく。その後チベットは、ダライラマ14世を、宗教的国家元首として、議会制民主主義の国家が作られていくことになる。チベットを失った成都軍区は、その後、北京派と南京派に分かれ内戦状態になるが、最終的には地理的、経済的に有利な南京政府側につき、南京軍区、広州軍区とともに中華民国となる。

このチベット独立の時期と前後して、内モンゴル自治区は、モンゴルの支援を受けて独立運動が激化するが、内モンゴルでは中国の植民政策が進み、モンゴル民族は20%にまで減少しており、既得権益を得ている漢民族の抵抗が大きかった。しばらくは住民同士が争う内乱状態になったが、それでも中国の支援が得られなくなった漢民族グループは次第に衰退し、内モンゴルは旧来のモンゴルに併合されていく。しかしそれにはまだ長い年月が必要だった。

蘭州軍区に組み込まれていたウィグル自治区も激しい独立運動が起きた。イスラム教徒が多いこの地域には、シリアから空爆で追い出されたISILの戦闘員が多数入り込み、また周辺国がそれぞれに近い独立勢力を支援するなど、国際的に複雑な紛争地帯と化すが、いずれにしても漢民族勢力はこの地域から撤退し、蘭州軍区は、北京の共産党政権に飲み込まれた。

中国の国土と人民の心に、美しい風景が戻ることを願って…