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その年の6月に独立宣言をした台湾は、アメリカと日本に承認を求め、両国は他国に先駆けて独立を承認した。台湾政府はアメリカに頻繁に要人を送り、中華民国の本土復帰への協力を依頼した。北京の薄熙来共産党政権に対して、南京軍区と広州軍区に中華民国の政権を樹立するというものだ。そうすれば、共産党政権は南シナ海沿岸部を完全に失い、南シナ海を放棄せざるを得なくなり、また大陸南部に親米政権を樹立することで、アジアにおけるアメリカの影響力を強めることが出来るというものだった。

アメリカはイギリスとも図り、香港はイギリスが支援し独立させ、台湾はアメリカが支援し南京軍区と広州軍区に中華民国政権を樹立させることが話し合われた。またアメリカとカナダには薄熙来や温家宝などの共産党幹部の資産の多くが移されており、それは数十兆円にものぼっていた。その多くは、利権にからむ賄賂で、いわば中国人民から搾取したもので犯罪的なものだった。アメリカはこれらの資産を凍結し、それを中華民国樹立後のインフラ整備の財源にするつもりだった。

8月、台湾軍は動いた。台湾が上陸拠点に選んだのは香港だった。この時、香港の民主化勢力は独立を宣言していたが、この時点では中共政権により表面的には完全に消滅しており、中共政権が強権的に香港政庁を牛耳っていた。台湾には香港の独立勢力が逃れてきており、彼らは前もって香港に戻り独立勢力を糾合し、武装警察部隊と激しい市街戦を行っていた。台湾は、香港を奇襲攻撃、制圧し、香港を独立させ、香港の港と空港を兵站拠点とし、広州、南京と北上する作戦だった。

東海艦隊と南海艦隊のほとんどは南シナ海海戦で壊滅し、また沿岸部の軍事基地はその後のアメリカの空爆で沈黙させられてはいたが、空軍の一部と陸上部隊は、まだ健在だった。台湾軍はありったけの艦艇を動員し、陽動作戦として台湾海峡の向かい側の、潮州から福州までの軍事拠点を艦砲射撃を行いながら北上した。その間に、陸戦隊と歩兵部隊、空挺部隊が香港に上陸、降下した。陸戦隊と歩兵部隊は、徴用した多数の漁船で香港市街地周辺に上陸した。空挺部隊ともに、台湾軍の武装はこの時点では小火器だけだったが、香港で独立派と戦闘していたのは武装警察だけで、これを制圧するのには十分だった。台湾軍は、港と空港を押さえ、独立派と合流し、香港政庁を占拠し、その後、一気に戦車、装甲車を陸揚げするとともに、陸軍本隊が続々上陸し、香港住民から解放軍として迎えられた。

台湾軍は、香港を大陸復帰の拠点として、台湾軍全軍といっても良い7割の兵力を上陸させ、広州を抑え、海岸沿いに南京に進軍を始めた。この時点で、広州軍、南京軍に対して、江沢民派などの、習政権からアメリカやカナダに逃亡していたかつての共産党幹部らが、アメリカからの資産凍結などの圧力もあり、広州軍や南京軍に働きかけをしていた。彼らにしてみれば、中国から持ち出した資産を、広州や南京で運用することで、一定の権力を得ることが出来ると考えてのことだった。広州軍や南京軍の幹部らも、もともとこの地域は、資本主義の原理を大きく取り入れていた地域で、習近平政権や薄熙来政権に付くよりは得策だとの考えもあり、戦わない道を選択した。

しかしそれでも、杭州の戦車師団は、共産党政権に忠誠を誓う道を選び、杭州入り口の分水江にかかる橋を封鎖し橋頭堡を築いていた。杭州軍の戦車は新鋭だったがアメリカの空爆により3分の1は破壊され、数は台湾軍が圧倒していた。さらに戦闘機は南京軍の司令部に押さえられ、空軍の援護もなかった。台湾軍は橋梁の位置から西側に杭州を包囲するように展開し、杭州湾からは激しい艦砲射撃を浴びせた。また台湾空軍が激しい爆撃を繰り返し、次々に脱走者が出てついに降伏した。

内陸部にはまだまだ残存部隊がいるようだったが、台湾軍はかまわず進軍し、その後は抵抗らしい抵抗もないまま上海を押さえ、南京に入城し、中華民国の首都を台北から南京に移すことを宣し、南京軍区と広州軍区に、新たな中華民国が樹立した。これは1949年に蒋介石が国共内戦に破れ台湾にわたって以来およそ70年目の本土復帰となった。

その後、中華民国は内陸に逃げ込み軍閥化した南京軍、杭州軍の掃蕩に数年間を要することになる。そして中国大崩壊は最終的局面に入っていく。