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駒姫は、天正7年(1581)、山形城主最上義光の次女あるいは三女といわれている。その容姿は「双なき美人なりし」と伝えられている。

天正19年(1591)、関白豊臣秀次が陸奥の九戸政実討伐の帰路に山形へ立ち寄った際にこれを見初め、側室にすることを望んだ。しかし義光は、まだ童女であることを理由に断ったが、その後秀次から再三の要求があり、やむを得ず文禄4年(1595)、駒姫を京都へ上らせた。

駒姫は京に到着し、最上屋敷で長旅の疲れを癒していたところ、7月15日、秀次は豊臣秀吉の命により高野山で切腹させられる事件が勃発した。

文禄4年(1595)6月末に突然、秀次に謀反の疑いが持ち上がった。それは秀次が鷹狩を口実として、秀次を中心とする”反秀吉一派”が謀議を重ねているというものだった。

これを受けて、石田三成ら奉行衆が秀次を詰問したが、秀次はもちろん謀反の疑いを否定したが、7月3日に、秀次が朝廷や公家衆に多額の献金をしており、また7月5日には秀次は家臣を毛利輝元のもとに派遣していることなどが三成から秀吉に報告された。

これに対して秀吉は秀次に伏見に出頭するよう申し付けたが、秀次は出頭せず、これにより秀吉は疑いを強めたようだ。周囲の説得で秀次がようやく伏見に参じた時には、秀吉は会おうともせず秀次に高野山に入ることを申し付けた。

秀次の妻妾らは8日の晩には捕えられ監禁され、秀次の重臣たちも切腹を命じられ、あるいは斬首された。

7月15日には、高野山に福島正則らが兵を率いて、秀次に切腹の命令が下ったことを告げた。秀次はやむをえずこれを受け入れ、近侍する小姓衆らとともに、所有する名刀で切腹して果てた。享年は28歳だった。
   磯かげの 松のあらしや 友ちどり
        いきてなくねの すみにしの浦

しかしこの事件はこれで終わりではなかった。秀吉は秀頼に塁が及ぶことを考え、秀次の係累の根絶をはかり、秀次の妻子はもとより、愛妾も8月2日にことごとく処刑されることになった。駒姫も捕縛され引き立てられた。

秀次とのお目見えもまだ行われず、実質的な側室になる前だったと言われている。駒姫にとっては濡れ衣どころではなく、自分とは預かり知らぬところで処刑が決められ、災いというべきもので、全く理不尽なものだった。

義光は必死で助命嘆願に回ったが、義光自身にも秀次に同心したという嫌疑がかけられており、そう自由に動けるものではなかった。その代わりに、嫡男の最上義康がかけまわり、父の無実と、妹駒姫に何の罪もないことを説いて回った。一説には、徳川家康や前田利家からも処刑せぬようにと声があがり、秀吉もついにこれを無視できなくなり「鎌倉で尼にするように」と早馬を処刑場に派遣したが、あと一町の差で間に合わなかったとされる。

8月2日早朝、三条河原に40メートル四方の堀を掘って鹿垣を結んだ中で処刑が行われることになり、さらに3メートルほどの塚を築いて秀次の首が西向きに据えられた。その首が見下ろす前で、子供たちが処刑された。幼い若君4名と姫君が処刑され、その後、側室・侍女・乳母ら39名全員が斬首された。子供の遺体の上にその母らの遺体が無造作に折り重なっていったということで、観衆の中からは余りに酷いと奉行に対して罵詈雑言が発せられたという。

駒姫も、他の秀次の側室達と共に、11番目に処刑された。享年は15歳だった。辞世の句は、
   罪を切る 弥陀の剣に かかる身の なにか五つの 障りあるべき

彼女らの遺体は遺族が引き渡しを願ったが許されず、その場で掘られた穴に投げ込まれ、さらにその上に「秀次悪逆塚」と刻まれた碑が置かれた。

娘の死を聞いた母の大崎夫人も、処刑の14日後の8月16日に亡くなった。娘の跡を追ったものと思われる。義光の憤激と悲嘆も激しく、これ以降豊臣には距離を置き、徳川家康へ接近していく。慶長元年(1596)の伏見の大地震の際、加藤清正は真っ先に秀吉の所に駆けつけ、他の大名達も、我先にと秀吉の見舞いに訪れたが、義光だけは秀吉を差し置き、家康の所に駆け付け見舞っている。

駒姫の死の翌年、専称寺を山形城下に移し、駒姫と大崎夫人の菩提寺とした。さらに慶長3年(1598)、八町四方の土地と寺領14石を寄進し、城下最大の伽藍を建立、敷地に村山地方の真宗寺院十三ケ寺を集め、のちに寺町と呼ばれるようになる町を整備した。この寺には、山形城より駒姫の居室が移築されており、大崎夫人像とともに彼女の肖像画が保存されている。