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岩手県一関市千厩町の地は、かつて前九年の役の際に、源義家が軍馬千頭を繋いだことが町名発祥の元ともいわれている。後三年の役の後に、この地には奥州藤原氏の私牧が開かれ、名馬の産地として有名になった。

源義経の愛馬の「太夫黒」は、この地で生まれたと伝えられる。「太夫黒」はもとは「淡墨」と呼ばれ、藤原秀衡の愛馬だった。治承4年(1180)、平家追討に立ち上がった源頼朝のもとに向かうため、源義経が平泉を出立する際に、秀衡はこの名馬「淡墨」を贈ったという。

淡墨は、佐藤継信・忠信兄弟とともに、義経に付き従い、宇治川の戦いや一ノ谷の戦いで義経とともに戦い、特に寿永3年(1184)の鵯越の逆落としでは、義経は精兵70騎を率いて淡墨にまたがり峻険な崖から逆落としをしかけて、平氏本陣を奇襲した。平氏軍は大混乱に陥り、鎌倉軍の大勝となった。

義経は平家討伐の功により五位之尉に任官した時、「淡墨」の功も大きいとして淡墨にも仮に五位の位を与え、五位の称号である「太夫」を冠し「太夫黒」と呼んだ。

しかし元暦2年(1185)の屋島の戦いで、王城一の強弓精兵である平教経は、義経を一矢で射落とそうとねらったが、真っ先に進んだ継信はそれを防ごうと矢面に馳せ、射抜かれて落馬した。義経は継信を陣の後ろにかつぎこませ、深手の継信の手を取って、「この世に思い置くことはないか」と尋ねると、継信は「君が世の中で栄達するのを見ずに死ぬことが心に懸かる」と答えて亡くなった。義経は嘆き悲しみ、僧に、愛馬「大夫黒」を寄進し継信を供養させたという。

「大夫黒」は、義経や継信・忠信とともに、平泉の秀衡のもとで兄弟のように育ってきたのだろう。それが継信の死によって、継信に会えなくなったのは勿論、義経や忠信とも離れなければならなかったことは「太夫黒」にとっては大きな悲しみだったに違いない。

太夫黒は、しばらくすると寄進された寺から姿を消してしまった。寺の者達がほうぼうを探したが見つからなかったが、しばらくして、継信の墓に寄り添うように倒れているのが見つかった。しかし、首も上げられないほどに弱っており、夜に降った雨のせいか体も冷たく冷え切っていた。首のあたりを二度、三度撫でてやると、太夫黒の目からはらはらと涙がこぼれ、そのまま息を引き取ったという。

これを哀れに思った寺の者たちは、継信の墓の傍らに太夫黒を埋めて弔ったと伝える。太夫黒の墓は、四国の香川県牟礼町の佐藤継信墓苑内にある。