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1894年、朝鮮国内の東学党の乱をきっかけに、清国軍と日本軍は朝鮮に出兵したが、反乱が収束し、朝鮮は日清両軍の撤兵を申し入れるが、両国は受け入れずに対峙を続けた。日本は清に対し、朝鮮の独立援助と内政改革を共同でおこなうことを提案し、イギリスも調停案を清へ出したが、清は日本のみの撤兵を要求しこれを拒否した。

日本は朝鮮に対して、朝鮮の自主独立を侵害する清軍の撤退と清朝間の、宗主藩属関係を解消することを申入れた。これに対して、朝鮮政府は「改革は自主的に行う」「乱が治まったので日清両軍の撤兵を要請」と回答した。しかしこの混乱の中で、朝鮮国内では大院君がクーデターを起こして閔氏政権を追放し、金弘集政権を誕生させた。金弘集政権は、閔氏政権と結んだ清国を掃討すべく、日本に対して牙山の清軍掃討を依頼した。そして豊島沖海戦、成歓の戦いが行われ、8月に日清両国が宣戦布告をし、日清戦争が勃発した。

近代化された日本軍は、近代軍としての体をなしていない清軍に対し、終始優勢に戦局を進め、遼東半島などを占領し大勢を決した。この混乱に乗じて大院君は、東学党を扇動し、数十万で大挙して漢城に来るように命じ、平壌の清軍と共に南北から挟み撃ちにして日本軍を駆逐する策を実行するように指示した。しかしその企ても、予想以上に早い日清戦争の決着で、全琫準らが第二次蜂起を起こしたときには、日清戦争は既に大勢が決まっており、11月に農民軍と日本軍が衝突したが、近代的な日本軍に農民軍はあえなく敗退し、全琫準は捕えられた。井上馨日本公使は全琫準の人格に共感しており、朝鮮政府に処刑しないように要請していたが、日本追い落としの企てが発覚することを恐れた朝鮮政府により、井上が帰国している間に処刑された。

翌年4月、下関で日清講和条約が調印され、戦勝した日本は清から遼東半島、台湾、澎湖列島と多額の賠償金などを得ることになった。しかし、ロシア、フランス、ドイツが日本に対して清への遼東半島返還を要求し、その後、日本は三国の要求を受け入れた。

下関条約で、朝鮮は清からの独立を果たしたが、三国干渉によって日本の影響力が後退すると、大院君によって政権を追われていた閔妃とその一族は、下関条約からまだ3ヶ月も経過していない7月に、ロシア軍の力を借りてクーデターを行い、再び政権を奪回した。このロシアを引き込んでの閔妃勢力のクーデターは、大院君や開化派勢力、日本との対立を決定的にした。

こうした中での10月、日本軍守備隊、領事館警察官、日本人壮士、朝鮮親衛隊、朝鮮訓練隊、朝鮮警務使が景福宮に突入、騒ぎの中で閔妃は斬り殺され、遺体は焼却された。事件直後の朝鮮国内での裁判では、興宣大院君を首謀者とする判決が出ているが、決定的な証拠がないため、その後、様々な説が出ている。反日教育の影響か、現在の韓国には、閔妃を殺したのは日本軍であり、さらに閔妃の遺体は日本人により陵辱されたとの話もあるが、閔妃のそれまでの行状を考えれば、大院君のみならず、朝鮮内の多くの者もその動機を持っていた。

崔基鎬は、「閔妃は自身の権力欲のみで庶民の生活を思いやることは無く、義父で恩人でもあった大院君を追放し、清国の袁世凱をそそのかし、ある時は日本に擦り寄り、ある時は清国に接近し、清国を捨てると今度はロシアと結びと、智謀家ではあったが、倫理が無く、『背恩忘徳の生涯』だった」としている。

また「門戸開放した朝鮮は西洋の先進文物を取り入れ、富国強兵と産業振興を目指すと同時に、古くなった封建制度を捨て去って新たな秩序を打ち立てなければならなかったが、閔妃とその一族は、この内どれも満足にできず、その結果として、どの勢力からも支持を得られなかった。開化反対を叫び壬午軍乱に参加した群衆は、閔妃を攻撃の的とし、また甲申政変を起こした開化派も東学農民軍もすべて閔妃とその一族の打倒を叫んだ。誰からも支持を得られなかった閔妃は、外国勢力に頼り、自身の権力欲のために清を引き入れ、朝鮮を日清戦争の地としたのは閔妃である」とする者もいる。