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現在の岩手県斯波郡の地は南北朝期には、清和源氏足利氏の一族の斯波氏が領していた。斯波氏は、足利泰氏の長男家氏を祖とし、家氏が陸奥国斯波郡の所領を譲られ、高水寺城に拠って斯波を称したことが斯波氏の始まりとされる。

斯波高経は、元弘3年(1333)後醍醐天皇の綸旨に応じた足利高氏(尊氏)に従って倒幕の兵を挙げ、六波羅探題攻めに参加した。建武元年(1334)、越前守護職に補任された。南北朝期には尊氏の股肱として、越前を中心に北陸の経営にあたり、新田義貞の討伐などで功績をあげた 。

鎌倉幕府が滅亡し、建武の新政が始まると、後醍醐天皇は陸奥・出羽の鎮撫の任に義良親王を就かせ、北畠顕家を陸奥守に任じてその後見とし、それを南部氏・伊達氏・白河結城氏ら陸奥の諸将が支援するかたちで、新政権の奥羽両国の経営が開始された。

しかし建武2年(1335)に北条氏残存勢力が鎌倉で「中先代の乱」を起こすと、足利尊氏は後醍醐天皇の許しを得ないまま鎌倉に下り乱を鎮圧し、そのまま鎌倉にとどまり、後醍醐天皇に対する叛意を公然と示すようになった。

天皇は新田義貞を大将とする尊氏討伐軍を送ったが、尊氏はこれを駿河の竹ノ下で破り、そのまま義貞を追撃して上洛、京都を制圧した。建武新政に叛旗を翻した尊氏は、奥州の北畠顕家や義良親王らに備えるため、斯波郡に所領を有する足利斯波氏、高経の嫡男家長を奥州総大将(探題)に任じて奥州に下した。斯波郡に下向した家長は、高水寺城に入り北畠顕家と対峙した。以後、家長は奥州探題として相馬氏を味方にするなど、尊氏勢力の拡大に努めた。

京都を失った天皇は北畠顕家に上洛を命じ、建武2年(1335)12月、顕家は足利尊氏追討のために多賀国府を進発し、鎌倉に向った。これに対して斯波家長は顕家の西上を阻止せんとして相馬氏らとともに北畠軍を高野郡、行方郡で迎撃、しかし、阻止できないまま顕家軍を追撃して鎌倉に入った。斯波家長らの追撃を振りきって京都に進攻した北畠軍は、足利尊氏軍を破り九州に追い落とした。翌3年4月、奥州に戻る顕家軍を鎌倉の片瀬河で迎撃した家長は、ここでも顕家軍を阻止することはできなかった。

九州に逃れた尊氏は態勢を立て直すと、上洛の軍を起こして摂津湊川で楠木正成を討ち取り、新田義貞を追ってふたたび京都を制圧した。後醍醐天皇は陸奥の北畠顕家に上洛を命じ、上洛軍を起こした顕家は奥州勢を率いて鎌倉を攻撃した。足利義詮の執事として鎌倉を守備していた斯波家長は、顕家軍と戦ったが、三たび敗れて、杉本の観音堂で自害した。

北畠顕家は、美濃で尊氏勢と戦い、伊勢・大和を転戦して、暦応元年(延元3年=1338)、和泉石津で敗れて戦死した。顕家が戦死したあとは、弟の顕信が陸奥国司として奥州に下り、奥州の南朝勢力の挽回に努めた。

家長の跡は子の詮経が継いだようで、詮経の時に本格的に高水寺に下向し、高水寺城を本拠とし、高水寺斯波氏の祖になったとされる。

高水寺城は、北上川右岸の段丘にあり、最頂部の標高は約180m、東西約550m、南北約700m。大手口は西にあたり、大手坂はらせん状に本丸に続く。途中多くの郭があり、大きいものでは若殿御殿、姫御殿がある。最頂部の本丸(御殿)跡は東西約60m、南北約120mで、二の丸跡は東西約50m、南北約100mほど。各郭には階段状の腰郭が続く。主要な郭を巡る空堀と土塁は改変を受けて不明な点も多いが、急崖をなす東辺を除いて二重、三重の塁濠(るいごう)が中腹から山裾にかけて残っている。

『志和軍戦記』には、「志和の城と申すは、前に北上川とて大川なり。後は深堀左右の深淵にて竜王も住居する程の大堀、要害堅固の城にて飛鳥も飛越し兼ねる程の居城なり」と記されている。高水寺城斯波氏は紫波郡一円を領し、南北朝期には奥州の北朝方の中心勢力となり、高水寺斯波氏は斯波郡六十六郷を支配下におさめ、足利将軍家につながる名門奥州斯波氏の嫡流を称して栄え、「斯波(志和)御所」と称されるようになったのである。隆盛を極めて高水寺城は「斯波御所」と称された。

奥州においては、南北朝の対立はその後も続き、奥州では大巻館を拠点とする河村氏が南朝方として忠節を尽くしていた。高水寺城の斯波氏は、延文年間(1356~60)のころより河村氏を次第に圧迫していった。そして、南北朝の合一がなったのちの応永3年(1396)、河村秀基は斯波氏に屈服してその家臣となった。

これ以降、室町時代における高水寺斯波氏の動向は必ずしも明確にうかがうことはできなくなる。南北朝期の騒乱が収束し、室町幕府の権威が衰えていくにつれ、奥州も次第に権威よりも実力が物言う時代に移りつつあり、三戸南部氏の勢力が南下しつつあった。永享7年(1435)、和賀・稗貫郡に起こった争乱において斯波氏の名がみえるが同時に調停に南部氏の名も見える。

その後も和賀一族の内紛は続き、黒沢尻氏や稗貫氏を巻き込んだ騒乱になった。この争乱の鎮圧軍の総大将は斯波御所だったが、実質的には南部氏が鎮圧軍の指揮をとったようだ。この当時は、足利一門につらなる斯波氏は南部氏の上位にあったが、下剋上の時代に足利政権が衰微していくとともに斯波氏も相対的に勢力を失っていった。

その結果、郡内諸臣の信望をも失い、ついには三戸南部氏の攻勢にさらされるようになる。