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両班による勢道政治は、王権の弱体化と王朝の混乱を生じさせた。しかし、1863年に、第26代王高宗が11歳で即位すると、実父の興宣君が大院君として摂政の地位に就いた。興宣が摂政になると、勢道政治を排し、党派門閥を問わず人材を登用し、汚職官僚を厳しく処罰するなどして、朝廷の風紀の乱れをただす事に力を入れた。また税制を改革し、両班にも税を課す事とし、平民の税負担を軽くするなどの改革を行った。

しかし、大院君政権は、迫り来る西洋列強に対しては強硬な鎖国、攘夷策を取った。まずカトリックへの弾圧を強化し、1866年から1872年までの間に8千人あまりの信徒を殺害した。この折のフランス人神父殺害の報復としてフランス政府は、1866年、フランス軍極東艦隊を投入し、江華島の一部と、江華城を占領、しかし、首都漢城へ進軍途中敗北し、フランス軍は江華島からの撤退を余儀なくされた。また、アメリカ商船シャーマン号が通商を求めてきたが、地元の軍と衝突し、商船は沈没させられた。アメリカはこの事件を機に朝鮮へ通商と損害賠償を求め、1871年には軍船5隻を率いて交渉に赴いた。しかし大院君は強硬に開国を拒絶し、アメリカは交渉を諦め撤退した。

大院君は、1866年、閔氏の娘のジエイを15歳で高宗の王妃として王宮に入れた。それまで60年間にわたって王の外戚として権勢を誇った安東金氏の政治的影響力を削ぐための人選だったとされる。閔妃は当初は大院君に従っていたが、閔一族を登用するために、次第に大院君と対立するようになり、大臣達とともに、大院君の下野運動を始める。

高宗は政治と妃に全く関心を持たず、専ら多数の宮女やキーセン達を相手にし、漁色と酒といった放蕩三昧に明け暮れる愚昧な人物だった。高宗が愛人との間に長子をもうけると、閔妃は急いで自身の子を出産し、その子を世子とするため、宗主国である清に側近を派遣して賄賂を贈り、自身の子を嫡子として冊封してもらうことに成功し、大院君との対立は決定的となった。

1873年、高宗の親政が宣言されると、閔妃一派による宮中クーデターが成功し大院君は追放された。政治体制は閔妃の一族である閔氏が政治の要職を占める勢道政治へと逆戻りし、それまで大院君が行った改革はことごとく無にされ、大院君派の多くは追放され、また処刑された。これ以後大院君は、政治復帰のためにあらゆる運動を行う事になり、血で血を洗う抗争が続き、朝廷の混乱の原因の一つとなった。閔氏一族は、大院君の攘夷政策に対抗し、一転して開国政策に切り替えた。

明治政府は、その初めから朝鮮に対し開国を求めていたが、大院君の攘夷政策により、使者は首都に入ることも許されず、それは明治政府に対する侮辱と受け止められ、征韓論が起こっていた。大院君失脚により、明治政府は朝鮮に開国を求め、軍事的な示威行動も意図して、江華島に軍艦を派遣し、周辺の測量調査を行った。これに対して朝鮮は砲撃を加え、日本の軍艦と江華島の砲台は交戦状態となった。

しかし両国とも戦闘を継続する意思は無く、朝鮮政府は事件後、釜山そうりょうにおける日本人への対応を一転して丁重なものに変える等、日本側を慰撫するような動きも見られた。事件後の1876年、全権大使の黒田清隆らがコウカフへと派遣されると、朝鮮政府は日本側に多大な配慮を示す対応を見せた。開戦回避という一点において日朝両政府の意図は合致していたといえる。結局、閔氏政権は、同年、日朝修好条規を締結し、それに引き続いて、アメリカ、フランス、ロシアなどとも通商条約を結び開国した。

明治政府は、その初めから朝鮮に対し開国を求めていたが、大院君の攘夷政策により、使者は首都に入ることも許されず、それは明治政府に対する侮辱と受け止められ、征韓論が起こっていた。大院君失脚により、明治政府は朝鮮に開国を求め、軍事的な示威行動も意図して、江華島に軍艦を派遣し、周辺の測量調査を行った。これに対して朝鮮は砲撃を加え、日本の軍艦と江華島の砲台は交戦状態となった。

しかし両国とも戦闘を継続する意思は無く、朝鮮政府は事件後、釜山そうりょうにおける日本人への対応を一転して丁重なものに変える等、日本側を慰撫するような動きも見られた。事件後の1876年、全権大使の黒田清隆らが江華府へと派遣されると、朝鮮政府は日本側に多大な配慮を示す対応を見せた。開戦回避という一点において日朝両政府の意図は合致していたといえる。結局、閔氏政権は、同年、日朝修好条規を締結し、それに引き続いて、アメリカ、フランス、ロシアなどとも通商条約を結び開国した。