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沼沢湖は、福島県金山町東部に位置し、かつては「沼沢沼」と呼ばれていた。標高約475mにあり、面積約3.1km²、水深は約96mである。

約4万5千年前と約5400年前の大規模な噴火によって誕生したカルデラ湖である。この地域は、カルデラを形成した大規模噴火の前後にも、溶岩ドームなどを形成した小規模な噴火を何度も起こしており、これら一連のカルデラや溶岩ドーム群を総称して沼沢火山と呼んでいる。そのためか、金山町には大小の温泉が点在する。

この地には、次のような大蛇伝説が伝えられる。
沼沢沼のまわりは昼なお暗く、常に濃い霧に閉ざされていた。この沼には、主の雌の大蛇が住んでおり、この沼の深いところに御殿があり、そこに住まっていたという。時折、機を織っているらしく、機織の音が聞こえていた。しかし、近寄る動物や村人には危害を加えることがあり、人々はこの一帯を「霧ヶ窪」と呼び恐れていた。

会津の領主佐原十郎義連は豪勇で知られた武将で、この沼沢沼の大蛇のことを耳にすると、早速に家来たちを引き連れて沼へ乗り込んだ。義連は、舟や筏で沼の中ほどまで進み、沼の中に矢を打ち込み、大声で大蛇をののしり騒ぎ立てた。

すると、穏やかだった空はにわかに黒雲に包まれ、稲妻が走り、強風が吹き荒れ、静かだった沼は波が逆巻いた。逆巻く波に主従が思わず筏の上にひれ伏すと、沼の中から真っ黒な蛇体が現れた。主従は、勇気を奮い、手に弓矢太刀をもってこれに向かったが、のた打ち回る蛇体で大波が押し寄せ、舟は木の葉のように揺れ矢を射ることさえできなかった。ついには津波のような波が押し寄せ、その波に全員のみこまれてしまった。岸で見ていた家来たちは、あれよあれよと右往左往するばかりだった。

その時、荒れ狂う波の中に、巨大な水柱が立ち、真っ黒の物凄い大蛇が姿を現した。その大蛇には佐原十郎義連がまたがり剣で蛇体を突き刺している。義連は一度家来と共に大蛇の腹に飲み込まれたが、その腹を切り裂き、大蛇にとどめをさそうとしているのだ。

岸の家来たちも勢いづき、力を合わせてこの大蛇を引き上げ、とどめをさした。腹を裂き、飲み込まれていた家来たちを助け出したが、蛇毒に当たり髪の毛は抜け、肌はただれて、みな死んでしまった。義連が蛇毒から免れ得たのは、兜の中に秘めていた1寸8分の観音像の加護によるものだった。

義連は大蛇の首を切り落とし、岸辺に穴を掘らせ、その首を埋めて沼御前神社を建てた。その後はこの地の鎮守として村人達に崇敬され、大正時代までは、機織りの女性達が、度々参拝していたという。

佐原十郎義連は、相模の豪族三浦義明の末子で、現在の神奈川県佐原に居住していたため佐原氏を称した。三浦一族は、すでに石橋山の合戦には頼朝を助け、その後の平家追討の戦いにも軍功をあげている。源平合戦の一ノ谷の戦いでは、源義経率いる搦手軍に属し、鵯越の逆落としでは真っ先に駆け下りたと伝えられる。文治5年(1189)7月の奥州合戦にも従軍し、その功により会津、河沼、耶麻の諸郡を与えられた。

十郎義連は当初は、現在の喜多方市熱塩加納に岩尾館を築きそれを居館とした。
現在は宅地や太子堂、稲荷神社の社地となっている。東西約200m、南北約800mほどの細長い館で、濁川西側の、比高約10mの段丘上に築かれていたと考えられる。北及び東側が段丘崖、南は沢、西側は土塁によって防備されていたと考えられ、現在は神社南側にのみ土塁が残る。

その後、義連の孫は、それぞれに各地に城を築き、北田氏・猪苗代氏・藤倉氏・新宮氏というような一族が分出した。その後、十郎義連の孫の光盛が、黒川城を居館とし一族をまとめ、相模の葦名にちなんで葦名氏を名乗るようになり、会津支配の主導権を握っていくことになる。

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