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初版20160909 301view

静御前伝説は各所に存在するが、この宮城県仙台市の秋保の地から旧宮城町にかけての地域には、平家の落人伝説とともに、義経や、北の方や、静御前の伝説が散在する。これらは、中世に秋保の地を支配した秋保氏が、その祖を平重盛としていることから、後世、この地に源平の伝承が集中したものと考えられる。

この地の清水窪(しずがくぼ)は、かつては「静ヶ久墓」であったとも伝えられる。この地のすぐ近くには、静御前の泉や静御前手植のひば、また 静御前の墓と伝えられるものもある。

源頼朝に追われ、平泉の藤原秀衡のもとに身を寄せていた義経を慕い、静御前はようやくの思いでこの地まで来た。しかし静はこの地で義経が 亡くなったことを知り、その悲しみと旅の疲れで倒れ、里人たちの手厚い看護も虚しくそのままこの地で没した。

この地の旧家には、静御前が使ったという茶碗が今も保存されており、静神社が鎮座している。年に一度、この茶碗にご馳走を盛って、静御前 にお供えをしていると云う。

清水窪から北方約15kmの地には、平氏の忠臣平貞能(さだよし)が開いたとする定義山(じょうげさん)があり、この平貞能が定義山に入る前に隠れ住んでいたこの新川の地を、兄源頼朝に追われた義経一行が、平泉へ逃れる途中通った。 

義経一行はそれを知らず、この貞能に一夜の宿を借りようとした。かつての敵味方も、今はお互いに落人の身の上、また義経一行には身重の北の方がいた。貞能は同情して義経一行に宿を貸した。

翌日、義経一行は平泉に出立しようとしたが、身重の北の方はこれ以上歩ける様子ではなかった。貞能の勧めもあり、北の方はここで出産してから平泉に行くことになり、義経一行は先に平泉へ向った。北の方はこの地で無事出産はしたものの、長旅のせいもあり、産後の肥立ちが悪く、とうとう亡くなってしまった。

貞能や里人達はこれを哀れに思い、北の方をねんごろに葬った。のちにこの北の方を葬った塚を、我が子を育てたいのに育てる事ができず、他人の親が育てるほととぎすの習性から「ほととぎす塚」と呼ぶようになったと云う。