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山形県庄内町清川字花崎

震災前取材

 

江戸時代以前は、最上川沿いは広々とした平地ではあったが不毛の荒地が多く人々は困窮していた。この荒地を開墾しようと、幾度となく川から水を引こうとしたが、川が土地よりも2~5mも低いため、なかなかうまくいかず、日照りの害に苦しんでいた。

この頃、狩川城主としてこの地を治めたのが北楯大学利長だった。利長は、なんとか水を引く方法はないものかと、10年の歳月をかけて調査し、最上川よりも高いところを流れる立谷沢川から水を引く計画を作成し最上義光に具申した。しかし、この計画の規模の大きさに義光も躊躇したが、新関堰を開いた藤島城主の新関久正はこれを支持し「この工事は領民や領内の発展のために重要であり、これを放置すれば末代までの損失だ」と指摘し、義光は意を決したという。

利長は、多くの農民を動員し、幾多の難工事を乗り越え完成したと云う。この全長34キロにも及ぶ堰を現在では『大学大堰』や『北楯堰』と称しており、この地の石高は、開堰後20年で、当初の3千石から3万石に増加したという。のちに義光から「庄内末世の重宝を致し置き候」と絶賛したという。

その後、最上家は改易され利長もこの地を去ったが、新領主の酒井忠勝は、利長の功績を賞し召抱えようとしたが利長は固辞し、代わりに息子を仕官させ78歳で没した。