スポンサーリンク

山形県酒田市日吉町一丁目…日枝神社境内

震災前取材

 

日枝神社境内の随身門近くにこの碑はある。

明治19年(1886)酒田に生まれ、荘内中学校(現山形県立鶴岡南高等学校)時代に、庄内藩の儒者の角田俊次の塾に起居し、西郷隆盛の「南洲翁遺訓」に接し、又、横井小楠の卓抜な見識に傾倒した。

熊本五高、東京帝大印度哲学科に学び、イギリス統治下の印度の悲惨を知り、インドの独立運動を支援。ヘーラムバ・グプタを一時期自宅に匿うなどし、植民地政策の研究を行った。その後、東亜経済調査局を率い、アジア、アフリカの政治経済、社会文化の調査研究の指導に当たり、又、北一輝らとともに「猶存社」を創立、さらに「行地社」などを主宰し、5・15事件に連座、獄中で「近世欧羅巴殖民史」を著した。

出獄後は、亜細亜主義の立場に立ち、日支間の和平、アジア問題に献身した。また、日本精神復興を唱え、日本史を概観する書物として『日本二千六百年史』を著し大ベストセラーとなった。当時賊徒として批判の対象であった北条義時、泰時や足利尊氏・直義兄弟を称賛するなど、当時の皇国史観では不敬の箇所ありとして多方面よりの攻撃に晒され、改訂を余儀なくさせられており、大川の歴史観は、いわゆる皇国史観のそれとは異なるものだった。

満州事変に際しては、在満邦人と満州人民を政治的横暴から救うという視点から、満州国の建国を支持し、また「日中連携」を不可欠のものとしており、日中間の戦争を望むものではなかったと云う。また、対米戦争については、大川は、最後の瞬間までこの戦争を望まず、極力開戦阻止を進言したが果たせなかった。

太平洋戦争終戦後は、A級戦犯として起訴され、東京裁判に出廷した被告の中で唯一の民間人だった。大川は水色のパジャマを着、素足に下駄を履いて東京裁判に出廷し、休廷中に前に座っている東条英機の頭を後ろから音がする程たたいたり、「インダー、コメンジー!(インド人よ来たれ!)」と叫ぶなど、常識を逸した行動をとり、精神異常と判断され裁判から除外された。

免訴後は米軍病院に入院させられ、後に精神鑑定で異常なしとされたが、裁判には戻されず入院継続させられた。入院中に、以前より念願であったコーラン全文の翻訳を完成する。東京裁判で起訴された被告人の中では、裁判終了時に存命していて有罪にならなかった唯一の人物となった。