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山形県酒田市二番町

震災前取材

 

明和5年(1768)、幕府巡見使一行を迎える本陣宿として、旗本2000石の格式をもつ書院造りを建造し庄内藩主酒井家に献上した。その後拝領し、本間家代々の本邸として使用され、昭和20年(1945)の春まで使用されていた。

本屋は22の間数で、南北33.6m、東西16.5m、敷地1,322㎡で、桟瓦葺平屋書院造りで、武家屋敷と商家造りが一体となっている建築様式。本邸の敷地には大きな長屋門と東側に薬医門がある。南側に七社宮という屋敷神があり、藩主忠徳公の額字を刻し掲げてある。たび重なる火災や地震にも耐えるよう、周囲には樹木が植えられ、土塀が巡らされており、昭和51年(1976)の酒田大火からも免れた。

本間家は、最高で3000町歩の田地を持つ当時日本一の大地主でもあり、「本間様には及びはせぬが、せめてなりたや殿様に・・・・」と歌われた。

本間氏の生い立ちは、村上天皇の第四皇子(村上源氏)の子孫と伝えられる。鎌倉期に相模守となり、現在の埼玉県座間市旧本間村に下り、そこで本間姓を名乗ったのが始まりとされる。更にその後佐渡守に任ぜられ、一族が越前、越後に散らばった。 酒田の本間氏は、南北朝の頃、越後から酒田に移り商人になったと云われる。

本間家二十六代久右衛門の次男本間久四郎原光(もとみつ)が分家し、酒田の本間家初代となり、現在の旧本間本邸付近に新潟屋を興した。古着、染物、金物などの雑貨を仕入れ販売し、米を売って商売を拡大し 、儲けた金で田地を買った。以後儲けた金は田地を買う事が本間家の家訓となったと云う。

宝永4年(1707)には酒田三十六人衆に加えられ、享保10年(1725)には、酒井家の京都上洛の御用米として312俵献上し、それ以降、何代にも渡って米、金を酒井家に献上することになった。

本間家中興の祖と言われる三代四郎三郎光丘は、19歳の時、姫路の馬場了可のもとで商いの道と学問を学んだ。酒田に戻ってから、飛び砂の害に苦しむ庄内浜の大砂丘の植林を藩に願い出 て、これをすべて私費で行った。この時代、庄内藩は困窮の度がひどくなり、光丘は藩の財政再建のため御小姓格として「御家中勝手向取計」を命じられた。金4000両を融資し、更に大津商人から高利で借りていたものをすべて肩代わりするなど 、財政再建に取り組んだ。この時期に現在に残る本邸が建てられた。

本間家では一般庶民に対する金融業も行っていたが、借り手を優遇し、過酷な取り上げもなく、質入れされた田地の買戻しにも応じ、大豊作の時には更に土地を追加して返却した事例さえあったと云う。小作人、農民を労働力として考え丁重に扱ったため、本間家の小作や農民達は一度も一揆、騒動を起こさなかった。取立ての厳しい殿様に年貢を納めるより、本間様の小作になった方が良いと云った逸話も残る。

その後、本間家歴代は、庄内藩と強く結びつきながら、地域の振興をはかった。戊辰戦争においては庄内藩は幕府側で戦い降伏し、本間家はこの処理に追われ、また太平洋戦争後の農地解放など幾たびもの苦難に襲われたが、現在も酒田の経済の中心的な役割を担っている。

昭和51年(1976)、酒田市を大火が襲った。折からの大風にあおられ大量の飛び火や火の粉が発生し、約12時間にわたり燃え広がった。このとき、火元は本間家本邸に比較的近かったが、この本間家本邸を守るために多くの市民が駆けつけ防火に努め、本間家本邸は類焼を免れた。