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山形県酒田市新屋敷

震災前取材

 

別名:松嶺城

この地にはかつては佐藤伊勢守正信が築いた中山館があったが、江戸時代には庄内藩の支藩松山藩の藩庁が置かれた。明治以降は松嶺城とも呼ばれるようになった。

元和8年(1622)最上氏の改易により、その旧領は諸大名に分与された。庄内十四万石には奥羽の外様大名の押さえとして、 信州松代十万石の譜代大名である酒井忠勝が転封された。その後、正保4年(1647)、忠勝の三男忠恒に中山、左沢の計二万石、七男忠解に大山一万石が分知された。

忠恒は、寛文2年(1662)に中山陣所を開き、寛文4年(1664)、古来の縁起により、宗藩は鶴ヶ岡で、酒田が亀ヶ崎であることから、末代までの繁栄を願い中山を松山と改めた。庄内藩から分藩した当初は、二万石の大名ながら城持とは認められず、陣屋構の居館で政務を取り仕切っていた。しかし三代藩主忠休は幕閣に入り若年寄の地位まで登りつめた為、5千石を加増され、さらに城持大名へと格上げとなり築城の許可を得る事が出来た。天明元年(1781)に築城が始められ、7年の歳月をかけて一応の完成をみた。

戊辰戦争では松山藩は庄内藩と行動を共にし、奥羽越列藩同盟に加担し官軍と戦ったが、隣接する矢島藩、秋田藩などに敗北を喫し、降伏後に松山城は大手門を残し廃城となった。

本丸を中心に、東部から南北を囲むようにして二の丸が位置し、それらの郭の西部から南北を囲むように三の丸が位置していた。天守閣や櫓は築城当初から築かれなかったが、計画では本丸に二重櫓を置く予定であったという。本丸には中山陣屋から移築した御殿があり、大手門とその脇には単層の物見櫓があった。

現在城跡の中心は公園となり、大手門の他、土塁および堀の一部が残っている。現在残っている大手門は寛政2年(1790)に落雷により焼失したものを酒田の豪商本間家が寄進し寛政4年(1792)に再建したものである。