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山形県西川町綱取沼の平

2015/11/13取材


沼ノ平集落の背後の、西側の龍神沼よりの川と、東側の綱取川で隔離された舌状台地上に築かれた山城である。

主郭は、標高480mの馬の背状の尾根に築かれ、集落との比高は約84mである。大手口周辺には、折りを伴った腰曲輪が構築され、郭は裾野を2~3段で一周している。主郭は最頂部にあり、下部に数段の段郭が見られる。

主郭部南側には、長さ約35m、深さ約2mの二重の空堀を設け尾根を分断している。主郭は、南北約60m、東西約30mの楕円形で、周囲を高さ約2m、幅約2mの土塁で囲んでいる。

主郭後方は、一段高い尾根筋まで延びており、2条の堀切によって断たれている。

築城時期、築城者ともに詳細は定かではないが、内陸と庄内を結ぶ主要道沿いにあり、また、月山や湯殿山への参詣道にもあたり、出羽三山宗教とも関連し、古い時期に築城されたものとも考えられる。

戦国期末期の天正年間(1573~93)には、在地領主の東海林隼人佐昌種が居したとされている。隼人佐は、谷地城主白鳥十郎長久に与力していた。しかし、天正12年(1584)、最上義光により、白鳥十郎が殺害された。このとき、最上に嫁いでいた息女日吉姫は、難を逃れて隼人を頼りこの沼の平館に身を寄せた。

最上勢は破竹の勢いで白鳥十郎の谷地城を攻め落とし、沼の平城に攻め寄せ、衆寡敵せず、隼人佐は最上勢に降伏した。その後東海林一族は、最上軍として慶長5年(1600)の慶長出羽合戦に参戦し、庄内で奮戦したとされる。