山形県河北町谷地戊

2015/03/21取材

 

この資料館は、昭和56年(1981)に、敷地、建造物、古文書などが、堀米家から地域の文化産業の向上のためにと河北町に寄贈されたもので、河北町が、往時の姿を保存するための修復整備を行い、昭和59年(1984)、紅花資料館として開設したもの。邸内の敷地面積は約2600坪あり、武者蔵、御朱印蔵、長屋門、庭園などを今に残している。

この村山地方は、江戸時代から明治初期にかけて、最上川舟運によってもたらされた京文化を色濃く花開かせ、米と紅花で栄えた。特に紅花はこの地の特産物で、「最上紅花」と呼ばれ、花びらを紅餅(花餅)としはるばる京都へ送られた。そして、京都の紅屋の手により、紅餅から真っ赤な紅がつくられ、それが女性の唇を彩るとともに、紅色の美しい衣装を染めあげた。

しかしその紅花も、明治になると安価な外国産の化学染料に押され、表から姿を消してしまったが、宮中や皇太神宮の式典で用いられる服装などは、いつもこの地方の紅花で染められ、今も紅花は生き続けている。

堀米家は、代々名主をつとめ、江戸時代中期より、農地の集積を計るとともに、文化年間(1804~1818)からは紅花を積極的に取扱い、この地方でも指折りの豪商に成長した。蓄積された財貨は、農地の開拓や金融に向けられ、伊達藩白石城主や庄内藩酒井公の拝領品が保存されていることから、大名貸しも行っていたと考えられる。また江戸時代末期には、百数十名の農兵を組織するなど、地域の治安にも貢献してきた。