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山形県寒河江市白岩

2015/03/21取材

 

元和8年(1622)、最上山形藩57万石が改易になると、その領地は分割されて、村山郡白岩郷8千石は、庄内藩主酒井忠勝の弟にあたる、旗本酒井忠重に委ねられた。

しかし、酒井忠重の支配は苛烈で、百姓を相手に米などの押し売りや高利貸をし、百姓の女房を城に召し出して美醜で選んで留め置いたり、人馬を不当に徴発したりで、苛政の結果、白岩では、餓死者や身売りの者を1454人も出した。この忠重の苛烈な支配に耐えかねた領民は、寛永10年(1633)、俗に「白岩状」「白岩目安」と呼ばれる非法23か条を記した訴状をもって幕府に直訴するに及んだ。しかし幕府はこれを取り上げることは無く、直訴に及んだものたちは処刑された。

それでも寛永15年(1638)には忠重は改易され、庄内藩に預けられ、領地は幕府直轄領となり、代官小林十郎左衛門が置かれた。しかしその支配も以前とほとんど変わらないもので、その3か月後、領民はまたも一揆を起こした。

代官小林十郎左衛門は、山形藩主の保科正之に対応を相談したが、幕府の対応は強硬で、山形藩主が訴えを聞くからと農民を宥めて、総代らを山形城下まで出向かせ、山形に直訴に訪れた36人は残らず捕縛され、全員が山形城下の広河原で磔刑に処せられた。

この前年には九州で、小西行長残党と農民による島原の乱があり、続いてのこの出羽の一揆は、改易された最上藩の残党と結びつく可能性を幕府は考えたのかもしれない、その対応は苛烈なものだった。

この地の碑は、笠石型の大きなもので、元禄年間の建立と推定されており、施主として「白岩八千石大庄屋和田庄左エ門 惣名主総百姓」の名がみられる。正面には「南無阿弥陀仏」と大書され、その脇に、犠牲者38人の法名が刻まれている。