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山形県鶴岡市羽黒町玉川字中国見

震災前取材

 

現在の鶴岡市は、かつて大宝寺といい、平安時代には大泉庄に属していた。ここに本拠を構えて勢力を拡大したのが大宝寺氏であった。大宝寺氏は、藤原道長の後裔で代々武蔵国に知行を持ち、「武蔵の藤原」を略して武藤氏を称したと伝えられる。奥州藤原氏討伐に従軍し功があり、その功により大泉庄の地頭職を拝領した。後に一族が大泉庄大宝寺に入り大宝寺氏を称するようになった。

大泉庄には山岳修験の山として知られている羽黒山があり、羽黒山は広大な神域と豊富な資金力を持っていた。大宝寺氏は次第に支配を強めて行き、大宝寺政氏の時には羽黒山の別当を兼ね、事実上羽黒山の支配者となった。別当となった大宝寺氏は、大宝寺城下の現在の鶴岡市鳥居町に一の鳥居を建て、梵字川を殺生禁断の川とし、羽黒山を牛耳ることによって、その権威を利用しながら勢力を拡大していった。

当時、羽黒山衆徒は大宝寺に3500房を構えていたといい、大宝寺は城下町であると同時に、出羽三山の門前町としての性格もあわせ持った町に成長していたように思われる。

現在の一の鳥居は昭和4年(1929)に奉納されたもので、鶴岡から羽黒橋を渡り庄内平野を横切り、羽黒街道が羽黒丘陵にかかる景勝の地に高さ22.5mの威容を見せている。