スポンサーリンク

山形県寒河江市日田楯越

2012/03/29取材

 

新田館は、最上川左岸の河岸段丘上に築かれた平城で、城域は、東西約90m、南北約110mほどの単郭方形館だったと思われる。北、西、南の三方は、幅10~15mの水堀と土塁が配され、東側は段丘崖で画されていた。現在は果樹園と住宅地になっており、土塁は残っていないが、西側と南側に水堀の跡が見られる。

永享元年(1429)新田重通によって築かれたと伝えられる。重通は、新田義貞の子孫とされ、下野国都賀の吉田より寒河江の大江氏を頼って移ってきた云う。その後、新田氏は寒河江大江氏と姻戚関係を結び、天正12年(1584)、新田公平の時、最上義光の寒河江侵攻に対して、新田氏は寒河江方として戦い、寒河江大江氏が滅亡すると、常陸国水戸へ逃れたと云う。公平はその後出家し、寒河江に戻り、公平山福正寺を建立したとも伝えられる。

なおこの地の白山神社は、新田重通がこの地に移ってきたとき、守護神として勧請したものと伝えられる。新田氏が去ったのちも村人らの崇敬は変わるところがなく、正徳3年(1713)に再建され、神仏混交で観世音を祀り、波除け白山堂と称され信仰を集めた。