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山形県村山市土生田字楯ノ内

2017/08/21取材

 

土生田館は、大宮神社のある西に伸びた比高約20mの丘陵一帯に築かれていた。北東方向500mの土生田楯山を詰城とした館城である。小規模ながら、山麓には東を除く三方に堀を巡らし、東へ伸びた尾根は大堀切で断ち切るなど、独立した館として機能していたようだ。

築城年代は定かではないが天正年間(1573~1592)に、最上義光家臣の、安食(あじき)大和守光信(あきのぶ)によって築かれたと伝えられる。『義光分限帳』に「元成澤城主、高五千石」とある。

光信は元和3年(1617)に没したが、その後の元和8年(1622)に最上氏は改易となり、このときに廃城となったと思われる。光信の子の安食七兵衛信重は、改易後、常陸国水戸藩徳川氏に仕えた。