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山形県村山市中央一丁目(最上徳内記念館)

2013/04/22取材

 

村山市楯岡出身の北方領土探検家である最上徳内(1755~1836)は、江戸時代の後期、幕府の蝦夷地検分隊の一員として蝦夷地に赴いたのが最初で、その後、択捉・国後などの北方諸島を含めて生涯で9回も訪れ調査をおこない、探検家として高い評価を受けた。この偉大な業績を後世に伝えていくため、記念館には、書物・測量器・北方の地図・択捉島に建立した標柱などの資料が展示されている。また、敷地内には、アイヌの住居であるチセが復元されている。

最上徳内は、北方を探検する際にアイヌの人達と寝食を共にし、アイヌの協力を得ながら調査を行った。アイヌ語で、家のことはチセと呼び、一軒なら「シネチセ」、二軒なら「トゥチセ」、三軒になると「コタン」(村、集落)という。屋根は茅葺で、母屋の回りに便所、倉、クマのオリが決められた位置に配置されていた。

アイヌは北海道の古い先住民で、広大な北海道の自然を生活の舞台にした漁猟民族だった。大森林にウサギやシカを追い、川でサケやシシャモをとる自由でのびやかな生活を送っていた。いたるところに神(カムイ)の存在を信じていた。最も身近な神は「火の神」で、家の中心にいろりを置き、何事もその周りで行った。次に大切なのは「水の神」で、流れる川に汚水を捨てるようなことはしなかった。

1つのチセには、原則として1夫婦だけが住まい、子供は結婚したら別のチセを建てて暮らした。親が年をとって1人になったりすれば、村全体が共同で生活の面倒をみたとされる。食事はウサギやシカの肉、サケなどと山菜を煮たものを主食とし、ヒエやアワの粥を食べた。男たちは狩猟の時は干し肉を持って出かけ、これと水だけで何日も過ごした。女たちは着物を織り、伝統的な刺繍を施し、娘たちは好きな男性に手作りの手甲、脚絆、鉢巻、そして着物を贈ったという。