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山形県村山市楯岡楯(本覚寺)

2013/04/22取材

 
江戸時代中後期の探検家である最上徳内は、宝暦4年(1754)、この出羽国村山郡楯岡村の貧しい農家に生まれた。家業を手伝い、奥州各地をまわりたばこの行商などをしつつ独学で学んだ。26歳の時、父が死去すると、天明元年(1781)、長男だったが学問を志し、家を弟たちに任せて江戸へ出て、幕府の医官山田図南の家樸となった。奉公しながら医術や数学を学び、29歳の時に、本多利明の音羽塾に入門し、天文学や測量、海外事情、経済論などを学び、長崎への算術修行も行った。

当時、日本近海にはたびたびロシア船が現れ、幕府はロシアの北方進出に対する備えや、蝦夷地交易などを目的に、老中の田沼意次らが蝦夷地開発を企画し、北方探索が行われていた。天明5年(1785)には、師の本多利明の代行として、蝦夷地調査団の東蝦夷地検分隊へ随行した。

蝦夷地では釧路から厚岸、根室まで探索、地理やアイヌの生活や風俗などを調査する。千島、樺太あたりまで探検、アイヌに案内されて国後島へも渡った。徳内は蝦夷地での活躍を認められ、越冬して翌天明6年(1786)には、単身で再び国後島へ渡り、択捉島、得撫島へも渡り、択捉島では交易のため滞在していたロシア人とも接触、ロシア人の択捉島在住を確認し、アイヌを仲介に彼らと交友してロシア事情を学んだ。北方探索の功労者として賞賛される一方、松前藩には危険人物として警戒された。

江戸では、十代将軍、徳川家治が死去、田沼意次は失脚し松平定信が老中となり寛政の改革をはじめ、蝦夷地開発は中止となった。しかし徳内は密かに、天明7年(1787)に再び蝦夷へ渡ったが、正体が発覚して蝦夷地を追放された。徳内は陸奥野辺地で蝦夷地に渡る機会を伺う中で、天明8年(1788)に、酒造や廻船業を営む商家の島谷屋の婿となった。

寛政元年(1789)、蝦夷地では、商取引や労働環境に不満を持ったアイヌが蜂起する事件が発生し、これを知った徳内は江戸へ知らせ、真相調査の調査団の一員として蝦夷地へ渡った。蝦夷地ではアイヌの騒動は収まっており、徳内らは宗谷など、日本海岸およびオホーツク海岸方面から太平洋岸方面を廻り調査。江戸へ戻り調査書を提出するが、幕府は徳内らの職務を離れた行動やアイヌとの交流を問題視し、徳内らは入牢させられた。しかし、師の本多利明らの運動で釈放され、寛政2年(1790)には放免され、同年に普請役に取り立てられた。

幕府は、松前藩に命じていたアイヌの待遇改善が行われているかを探るため、徳内を蝦夷地へ派遣、これが4度目の蝦夷地となった。徳内は国後島、択捉島から得撫島北端まで行き、各地を調査した。交易状況を視察し、量秤の統一などを指示、アイヌに対して作物の栽培法などを指導し、厚岸に神明社を奉納して教化も試みた。また、ロシアが日本人漂流民を送還するために渡航するという情報を得る。

寛政4年(1792)には樺太調査を命じられ、樺太の地理的調査などをおこない、鎖国の国法に接する松前藩の、ロシア、満州との密貿易や、アイヌへの弾圧も察知した。この年、伊勢の船頭である大黒屋光太夫ら日本人漂流民一行の返還のため、ロシア使節のアダム・ラクスマンが根室へ来航し、徳内は滞在を延期して根室で越冬した。

寛政5年(1793)には、江戸深川の川船役所への出仕を命じられ、のちに山林御用に命じられる。寛政10年(1798)には、幕府は大規模な蝦夷調査を立案し、徳内は幕臣の近藤重蔵の配下として蝦夷地に渡り、択捉島に領有宣言を意味する「大日本恵登呂府」の標柱を立てた。その後、道路掛に任じられ、日高山脈を切り開く新道の普請にあたったが、見分隊の総裁と意見が衝突し、免職された。

文化元年(1804)まで、再び山林御用を務めたが、文化2年(1805)にまたも蝦夷地に渡り、文化5年(1808)には樺太詰を命じられ、宗谷から樺太に渡った。

文政6年(1823)にシーボルトが来日し、徳内はシーボルトを訪問し、学術や北方事情などを話題に対談し、間宮林蔵が調査した樺太の地図を与え、日本研究に熱心なシーボルトに協力した。シーボルトは文政11年(1828)に帰国する際に、国禁の日本地図持ち出しが発覚し、シーボルト事件が起きたが、徳内は追及を免れている。

晩年は江戸の浅草に住み、天保7年(1836)、享年82で没した。著作に『蝦夷草紙』、アイヌの生活を記した『渡島筆記』などがある。またアイヌ語の辞典である『蝦夷方言藻汐草』の編纂にもかかわった。