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山形県尾花沢市延沢三日町

2017/08/21取材

 

別名:霧山城・野辺山城

延沢城は、比高約120m、標高297mの古城山に築かれた山城である。城域は、東西約550m、南北約350mほどで、頂部の主郭を中心に、北側、東側稜線上に段郭を配している。

主郭の規模は東西約100m、南北約70mほどで、東端には櫓台が築かれており、北側と東側には土塁が築かれている。北に大手、南に搦手の虎口を設けており、北の大手虎口は桝形で。石積が施されていた。南端の虎口は小規模な枡形虎口で、「穴道」あるいは「かくし道」と呼ばれる道が南麓の善法堂まで繋がっていた。北側には数段の段郭を配した北郭があり、切堀で区画されている。

主郭から北へ段々と曲輪が連なり、「天人清水」と呼ばれる井戸のある大堀切に至る。この堀切の西側には二重の竪堀が設けられている。山麓の現在の中学校は南館と呼ばれ、居館があり、その裏側は家臣団の屋敷があった。

延沢氏の菩提寺である龍護寺の山門は、寛永7年(1667)に廃城となった延沢城の三の丸大手門を移築したものである。

延沢城は、天文16年(1547)、延沢薩摩守満重により築かれ、以後、代々延沢氏の居城となった。延沢氏の出自は不明だが、応永2年(1395)、この地に土着した算学兵術の達人、日野大学頭昭光を祖とするとされ、また正平年間(1346~70)頃、東根城を居城とした小田島氏の庶流を祖とする説もある。いずれにしても延沢氏は、15世紀初期頃までにこの地に土着し、延沢銀山の利権を握り、支配拠点として延沢城を築いたと推測される。

延沢氏は、天童城主天童頼澄の与力衆「天童八楯」の旗頭として山形城主最上義光と長きにわたり争い、しばしば義光を破った。これに手を焼いた義光は、延沢満重の子で武勇に優れた満延を調略するために、天正12年(1584年)満延の息子光昌と娘の松尾姫を娶わせ、満延を引き抜いた。これにより天童八楯は崩壊し、天童城は陥落し、天童頼澄は、伊達領の国分盛重を頼って落ちのびた。

その後、光昌は、最上氏の小野寺、庄内進攻等で軍功をあげ、尾花沢盆地一円に2万石を領した。 しかし、元和8年(1622)、「最上騒動」により最上氏が改易になると、光昌は肥後加藤家に預けられ、延沢城は、山形に移封した鳥居氏の支配下になったが、寛文7年(1667)頃に破却された。