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山形県遊佐町小原田字大楯

2015/08/25取材

 

月光川左岸の、標高約16mの自然堤防上の微高地にある。遺跡全体は60万㎡と広大で、現在は調査が済んだ中心部の60aが史跡公園となっている。遺跡からは多数の建物跡や角材柱列や板塀の跡、井戸跡などが確認されている。また雨落溝が巡り、玉石敷の空間も見られ、五輪塚や、中世の神仏習合の社殿跡も確認されている。出土遺物として、饗宴で使用される「かわらけ」が多数出土したが、白磁や青磁の皿や香炉など、輸入陶磁器も多数発見された。

出土物などから、造営されたのは鎌倉時代初頭と考えられるが、鎌倉以前の平安後期の木簡なども出土していることから、摂関家荘園である「遊佐庄」の荘家の遊佐氏の居館だったと考えられる。奥州藤原氏の時代にはその下で在地領主となっていたが、平泉藤原氏滅亡後、鎌倉政権と親密な関係を持ち、鎌倉幕府により、この地の留守所となったものとも考えられる。

その後、南北朝時代に畠山氏が奥州探題となって赴任すると、その傘下に入り、一族はそれぞれ出羽、河内、能登、越中に分かれた。室町期に、遊佐氏は勢力を拡大し、文正年間(1466~67)の遊佐太郎繁元のとき、遊佐庄南端の酒田城に移った。遊佐氏は南北朝期には、隣接する大泉庄を支配していた武藤氏(大宝寺氏)と争い没落し、現在の宮城県鳴子町辺りに落ちのびたとされる。