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山形県酒田市十里塚

2014/12/10取材

 

庄内海岸は砂浜が長く続き、現在は黒松の林で、その間では果樹や野菜の生産が盛んである。 この地の林は、風と飛砂を防ぐために人が植えてきた「砂防林」である。

古くは、この地の砂丘は広葉樹の森に覆われていた。しかし、戦国時代の戦乱や、年貢としての「塩」を作るための薪として、或いは、木材や燃料等の生活の糧として森は切られていった。もともと厳しい環境の海岸砂地で、絶妙なバランスで存在していた自然林は、人手が入ったことで急速に衰退していった。ついには森が失われた砂丘は、不毛の砂漠となった。次々と海からの飛砂がさらにその上に降り積もり、変幻自在の恐るべき移動砂丘と化した。

飛砂に家や田畑は埋まり、河口も埋まり、行き場を失った川の水は氾濫を繰り返した。庄内の人々は、この「飛砂」と「洪水」の二重苦に苦しみ、砂で滅びた村もある。

江戸時代初期から、人々は砂防のために植林を始めた。はじめは様々な木を植えたが、強風、塩分、乾燥、といった厳しい条件の砂丘に根付く植物は少なかった。18世紀の中頃には、このような条件に耐える樹木として「クロマツ」を見出し、植林が本格化した。砂地に強い草を植えて砂丘の表面を落ち着かせ、次にネムノキやグミなど、砂地に強く地力を肥やす潅木を植える。そして、その後ろに「主役」たるクロマツを植える、という植林方法にたどり着くためには、多くの人々による長い試行錯誤の時間が必要だった。

延享3年(1746)、酒田の大きな造り酒屋の佐藤藤左衛門と藤蔵父子は、私財を投げうって30年にもわたり植林を行った。息子の藤蔵は、家業を弟に譲り、砂丘に小屋を建ててそこで寝食をしながら植林を行った。はじめに、ネムノキを植え、その根の張ったところにクロマツを植えるという方法で、しだいに防風林をのばしていった。藤蔵のこの方法を見て、地域の農民も参加しはじめたのは、藤蔵が植林を初めてから30年後のことだった。

宝暦8年(1758)には、酒田の豪商で日本一の大地主の本間光丘は、「徳は得なり」の哲学のもと、藩から許可を得て私財600両を献納し、酒田湊の西浜に砂防植林を行った。最初に砂地に砂嚢を置き、それを積み重ねて砂の移動を止め、植林を行った。冬の酒田は、北前船が来ないため、港の労働者は失業状態だった。この植林事業を、光丘は失業対策事業として永く続けた。

その後も、農民が藩の補助を受けて行ったものや、藩有林である「御林」として造成されたものなど、多くの人々が様々な形で砂丘の植林を続けた。それでも人々をこの困難な砂丘の植林に立ち向かわせたものは、地域のため、子孫の為に、百年の計の元に木を植えるという公益の精神だった。

しかし、第二次世界大戦時には、燃料の収奪や、食糧増産のための開墾、さらには松根油採取などの為に砂防林は荒廃し、再び飛砂の猛威が襲うようになった。復活した。安部公房の「砂の女」の世界は、けっして大げさでなく、わずか4~50年ほど前の庄内砂丘の光景を伝えているのである。しかし戦後の復興とともに、国営の造林事業が導入され活発に植林が行われ、江戸時代から続いてきた砂防植林は、昭和40年代(1965~75)に至り、ようやく一応の完了を見た。